じゃんけん大会優勝者に勝利の秘訣を聞く意味はあるか?

標題の問いに対する『理屈コネ太郎』の答えは “ない” である。

具体的に考えてみる。例えば1,048,576人(2の20乗)の参加者でじゃんけんトーナメントを開催したとする。最後まで勝ち残る確率は0.00000095367431641(0.5の20乗、あるいは1/1048576)である。

そのトーナメントの優勝者は確率0.00000095367431641の非常に狭き門を勝ち抜いてじゃんけんトーナメント大会に優勝した。では、この優勝者はじゃんけん運が強いのであろうか?

ここで、強いと解釈する人もいれば、たまたま彼が優勝しただけで、他の誰が優勝するのも同じ確率だ。誰かが必ず優勝して、それたたまたま彼だったたとういう事実があるだけである、と解釈する人もいるだろう。

最近、「自分は強運の持ち主だ」と主張する人とお喋りした。その人物が自分を強運と思う理由や根拠は私には到底理解できない内容だったが、私にとって興味深いのは、その人物はじゃんけんトーナメント大会優勝者に「運を強くする方法を教えてもらう」ことには意義があると考えている事だ。

つまりその人物はじゃんけん運を強くできると考えているのである。いや、面白い。

ところで確率論的には、正確に作られた硬貨をトスして出た裏面・表面を記録すると、ある時期表面ばかりでたり、その反対に裏面ばかり出る事は普通にある。

それはあくまで偶然の結果に過ぎず、その結果にコインの性質や癖などは反映されていないのだ。

大事な事なので繰り返す。癖や偏りなどを一切排除して正確に作られたコインをトスしても、表裏表裏表裏のような結果にならず、表表表表表表みたいな意味ありげな結果になる事は当たり前なのだ。

表⇒勝ち、裏⇒負けと言い換えてみよう。正しいコイントスでは、必ずしも勝ち・負け・勝ち・負けのように、勝ちと負けが交互に出てこない。

勝ち・勝ち・勝ち・勝ちみたいに勝ちが連続する事象は結構おこる。さて、これをみて運が強いとか弱いとかを言えるだろうか。

仮に言えたとして、では、運を強くすることなど出来るだろうか。運を強くするということは、勝ち・勝ち・勝ち・勝ちと、自分の好むタイミングで勝ちを多く出すという事だ。そんな事は出来ない。

しかし人は、結果から何か意味を読み取ろうと努力する。眼の前の事象の背後にある法則を見つけ出そうとしてしまう。

偶々、勝ちが連続すると、その部分だけをみて運が良いというのだろう。

“運”という捉えどころのないものが、自分が観察した現象の背後に影響力を持っているとはなんとも気持ち悪いので、せめて運が強いとか、運が悪いとか、運についての法則みたいな事を言い出すのかも知れない。

法則の見つけ方には、科学というか学問全体に通底するお作法というか基準があって、そのうち重要なもののひとつは観察者の主観を徹底的に排除することである。

観察者がどう思うとか、観察者がどう推察する、ということは仮説の一歩手前くらいまではオッケーだが、仮説の検証や証明の段階ではこの論法はご法度だ。

自分が観察した範囲ではそうなっているので、それが法則です。というのは随筆ではあるけれど、科学的方法ではない。

さて先のじゃんけんトーナメント大会の優勝者が2回目のじゃんけんトーナメント大会でまたも優勝したらどうだろう。それが偶然起きる確率は0.00000095367431641の2乗。勿論、いかさまやヤラセの類は一切なし。真にガチの対決だけで構成されたトーナメントである前提だ。

ひとつ考えられるのは、この優勝者は対戦相手の表情その他の癖で、相手の出し手を事前に瞬時に察知して対応する能力に長けているかもしれない…ということ。この仮説が何等かの科学的方法で証明された場合、この優勝者はじゃんけんが強いとはいえるが、じゃんけん運が強いわけでは全くないことになる

ちょっと話が迂遠になったので、本筋に戻したい。『理屈コネ太郎』の認識するこの世界は確率論的世界である。

確率というのはある事象が起こる起こりやすさ(蓋然性と言ったりする)を数値で表現したものである。

確率論的世界では、努力は意味あるけれど必ず成功をもたらすものでもない。運命の異性なんて存在しない。しかし、偶然の作用だけで何事にも連戦連勝の人もいたりする。

確率は場合によっては上げたり下げたり操作する事も可能である。たとえば2大会連続でじゃんけんトーナメント大会に優勝した先の人物の持つスキルは勝利の確率を上昇させる。だからこの人物は2回も優勝できたと考える事も出来る。

ではこの優勝者にそんなスキルはなく、全く偶然の作用だけで2回連続優勝をしたとしたらどうだろう。これはかなり低い確率だ。しかし、どんなに確率が低い事象であっても、確率論の教えるところに拠れば、それは起こり得るのである。同時にどんなに確率が高い事象も起きないときは起きない。

合格90%と予備校に診断されたのに志望校に落ちる受験生は必ずいる。

ところで、人類が育んできた科学や工学の世界では、確率論的世界は認めつつ、同じインプットに対して同じアウトプットが得られるような技術を構築してきた。

同じ食材を同じ人が同じ方法で調理すれば同じ料理が出来あがる。それはニュートンが力学を体系的に纏めて以来、同じモノに同じ作用を与えれば、同じ結果が必ず得られるという世界観の普及だ。ニュートンはそれを意図していなかったろうが、決定論的な世界観である。

しかしニュートンが質点という概念を用いて物体の運動をモデル化をした際におそらく多くの人が発したであろう異論、すなわち「世界はそんなに単純ではない」という事の意味を考えてみる。

その”単純ではない” の意味するところは、原因と結果は1対1ではなく、原因と結果の間には様々な確率論的に作動するメカニズムが介在し、同じ原因であっても異なる結果が生じる事もある‥という事ではないだろうか。

ニュートンのモデル化の素晴らしいところは、そうした確率論的メカニズムを一切排除した事だと思う。そして実際にその手法は通常の手法で人間が観察できる世界ではとてもパワフルに機能したのだ。

己の分際を弁えぬ大言壮語をするならば、アイザック・ニュ-トンは、確率論的メカニズムが殆ど介在しない現象だけを選んでモデル化したのだと、『理屈コネ太郎』は思っている。

モデル化できる現象だけをモデル化したのだ。この目利きぶりが、ニュートンの本当に凄いところなのではないだろうか。

しかし私達が生きる人生や実生活は、ニュートン力学よりはるかに複雑だ。確率論的な作用を与える介在的な存在が膨大にある。私達が認識する実社会は運というものにかなり影響をうけている。。

たとえば、喫煙が肺癌の大きなリスクファクターである事は現在では広くしられているが、しかしきちんと統計をとると、非喫煙者でも肺癌に罹患するし、ガッチガチ喫煙者でも肺癌にならない例は無数にある。喫煙と肺癌は1対1の因果関係にないのだ。

つまり、1000人、10000人単位で喫煙者と非喫煙者を長期間観察したときに、喫煙者の方が間違いなく肺癌罹患率は高いので、全体的な傾向としてタバコが肺癌リスクファクターである事は疑問の余地がない。

しかしそうした一般的傾向から外れる人達も少なからずいて、そのように、傾向から外れる原因は将来科学的に解明されるかも知れないが、私としては “運” なのだと思える。いや、思いたい。

何故なら、もし今後肺癌の原因が全て発見し尽くされて全く運が作用する余地がなくなったとしたら、やや極論だが肺癌は予防され根絶される事になる。これは一面喜ばしいことかも知れない。

同様な事が、胃癌、大腸癌、肝臓がん、胆道癌、膵臓癌などのありとあらゆる病気で起きたとしたら、人間は一体どういう理由で死ぬことになるのだろうか。

全員が血管イベントで他界するのだろうか。全癌の発生原因の全てが把握された世界では、心血管イベントも制圧されているように思う。

では、そんな世界で人間はどうやって生命を全うするのだろうか。

私『理屈コネ太郎』はやはり、人智の及ばない “運” で人は病気になり他界するのだとおもう。いや、思いたい。

その人の力ではどうにもならない運で病気になってしまったからこそ、病者に人間的共感を抱けるのではないだろうか。

それにまでも人間が死なない世界なんて、嫌だもの。運というどうにもならないものが人類に残されて欲しい。運に翻弄され、もがき苦しむのが人間の素晴らしさなのだと思うなあ。

あ、だから結論としては、運だけでじゃんけんトーナメント優勝した人には成功の秘訣を聞いても意味がないけど、何等かの正当なスキルによって優勝したのなら、そのスキルについての話は聞いた方が良い‥かな?

あ、それから、運の強い弱いは短期的にはあるかも。逆にいえば、たまたま上手くいっている状況を運が強いと呼び、うまくいってない状況を運がないなどというのかも。でも、繰り返すがそれは短期的な話だ。長期的には確率論敵にある値に収斂していくだろう。

今回は以上。

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