ハナシの出来ない人認定される前に|知識の陳腐化に気づこう

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知識は意外なほど早く古びていく

『理屈コネ太郎』として当ブログを開設してから、約1カ月(2020年9月13日時点)が経過しました。

この間、50本ほどの記事を公開し、15本ほどの下書きも作成しましたが──その過程で、強く実感したことがあります。

それは、自分の知識の多くが、今この時代の前提とは、もうかけ離れてしまっているという事実です。

こうした感慨はブログ開設以前にも経験しました。

たとえば、かつて禁忌とされていたβブロッカーが、現在では慢性心不全の治療薬として使用されていると知ったとき。あるいは、MotoGPで活躍するマルク・マルケスが前輪をスライドさせてコーナリングしているのを初めて見たとき。

そして最近はこのブログの執筆に際して事実関係を調べ直すたびに、自分の記憶のなかの“常識”が、すでにかなりの頻度で現実とはズレていると気づかされます。


周囲と向き合って話すには、「今」を知っている必要がある

快適で、意味ある毎日を送るには、周囲の人と考えを交わせる関係を築くことが欠かせません。
日常の中で、ちょっとした話題や意見交換のなかに、知的な刺激や生活のヒントがある──そう感じたことは、誰にでもあるでしょう。

ところが、そこで語られる内容や価値観が現代の前提からズレてしまっていると、話はどこか噛み合わなくなっていきます

そのズレはやがて、単なる違和感では済まなくなります。

やがて、人はこう思うようになります──
**「この人とは、まともに話をするには前提が合わなさすぎる」**と。

つまり、「向き合って話すに足る相手かどうか」という無意識の基準から、静かに外されていくのです。


会話のベースは、「共通の前提」でできている

会話とは、言葉をやり取りすることに見えて、その実、前提を共有することでもあります。
つまり、前提が通じない人との会話は、いくら語彙が豊富でも、どれだけ熱意があっても、空転してしまいます。

そして、それは決して「相手が悪い」のではありません。
いまの世の中で通じる言葉や価値観に、自分が追いついていないのです。


知識は“資産”ではなく“鮮度を問われる道具”

知識というものは、得た瞬間に終わるものではありません。
むしろ、得たあとにどう磨き直すか、更新し続けるかが問われる消耗品です。

昔の教科書、かつての常識、かつての成功体験──
それらは今も通用するとは限りません。
とりわけ、医療・テクノロジー・ライフスタイル・表現方法など、あらゆる分野で、変化のスピードは加速しています。


人と向き合いたいなら、アップデートは欠かせない

自分の語る言葉に、他人がきちんと耳を傾けてくれるような関係を保ちたい。
思考を交わせるような対話の輪に、これからも加わっていたい。
そう思うなら、知識や前提をアップデートする努力は避けて通れません。

そしてそのために、私が選んだ方法が、このブログを書くことでした。
調べ直し、書き直し、ときに恥をかきながら、私は少しずつ「今」に追いつこうとしています。


最後に──「陳腐化」は、恥ではなく伸びしろだ

まだまだ、私は過去の知識や感覚にしがみついてしまう瞬間があります。
でもそれは、短所を伸びしろに変える方法の記事でも説明したように「成長する可能性がある」ということ。
だから私は、更新する努力続けようと思います。


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