重いコンダラ”を見た気になるのはなぜか|巨人の星が生んだ共通幻想

「思い込んだら 試練の道を──」

昭和のスポ根アニメ『巨人の星』の主題歌「ゆけゆけ飛雄馬」は、今なお語り継がれる印象的なフレーズに満ちている。その冒頭にある「思い込んだら」が、いつしか「重いコンダラ」に聞こえるという、妙な言説が流通し始めたのはもう何十年も前のことだ。

整地ローラーを引く飛雄馬の姿を思い出しながら、「巨人の星の主題歌で“思い込んだら”が流れるタイミングで、飛雄馬が整地ローラーを引いていたから、ローラーを“コンダラ”という名前だと誤解した人がけっこういた」──そう信じている人は、今も少なくない。だが実際に主題歌の該当箇所を検証してみると、飛雄馬がローラーを引いている映像は登場しない。画面にあるのは、飛雄馬が雪のなかを走る姿だ。

“思い込んだら”のタイミングだけでなく、主題歌が流れているあいだ、飛雄馬がローラーを引くシーンは一度も登場しない。それなのに、なぜ多くの人が“確かに見た”と思い込んでしまったのだろうか。

この現象を単なる記憶違いと片付けてしまうのは、いささか惜しい。そこには、もっと奥深い「誰かの語りが自分の記憶を生む、あるいは改変する」プロセスが隠れている。


Contents

■ “重いコンダラ”のネタとしての高い完成度

「重いコンダラ」とは、歌詞の「思い込んだら」がそう聞こえるという面白ネタである。ネタとしての出発点は、おそらく誰かが「“思い込んだら”の場面で飛雄馬がローラーを引っ張っている映像が流れたので、整地ローラーを“重いコンダラ”と誤解した」という、いかにもありそうな架空の話を構成したのだろう。

このネタは、ネット以前の日本で静かに、そして確実に広まった。

ある人は「整地ローラーを“コンダラ”って名前だと誤解した人がいるんだって。その理由が、巨人の星のオープニングで…」と他人事のように語った。
別の人は「俺、かつて整地ローラーを“コンダラ”だと思ってた時期があってさ。その理由がさ、巨人の星の主題歌“思い込んだら”のときに、飛雄馬がローラーを引いてたんだよ」と、まるで当事者であるかのように話した。

コンダラの語感の可笑しさと、整地ローラーをコンダラと誤解した滑稽さ、さらに『巨人の星』の主題歌「思い込んだら」のタイミングで飛雄馬が整地ローラーを辛そうに引っ張る──という、いかにもありそうな構図が加わって、この面白ネタは広く受け入れられ、静かにバズっていった。

ところが、既述したとおり、実際には主題歌中にそのようなシーンは登場しない。

では、なぜこんなにも多くの人が“あの映像を見た気になる”のか。


■ 本編のローラー映像が原因ではない

一見すると、この誤認の背景には「本編に整地ローラーを引くシーンが存在するからだ」という説明が成り立ちそうに思える。確かに本編では、飛雄馬がトレーニングの一環としてローラーを引く場面が登場する。しかし、この場面を正確に記憶している人は多くない。

むしろ多くの視聴者は、『巨人の星』という作品全体に対して、「とにかく過酷な訓練をしていた」という印象だけを強く記憶している。ローラーを引くか、バーベルを背負うか、崖を登るか──その違いは曖昧で、「苦しそうに何かを引いていた」という“雰囲気の映像”が漠然と残っているに過ぎない。

この「具体的な映像記憶の欠如」と「作品の強烈なイメージ」が重なることで、後年になって語られた「“重いコンダラ”という整地ローラーが登場するシーン」という、さもありそうな語りを、まるで自分も見たかのように受け入れてしまうのだ。


■ ネット以前からあった共通幻想

興味深いのは、この誤認がインターネット普及以前から存在していた点だ。雑誌の読者投稿欄、ラジオ番組、学校での会話──そうした日常の中で、「あれってコンダラって言うんだよ」という話が、まことしやかに流通していた。

それは厳密な事実というより、“語りやすくて信じたくなる話”だった。「主題歌の『思い込んだら』で飛雄馬が重いものを引いている。なるほど、あれがコンダラか」。筋が通っていて、笑えて、覚えやすい。だから人々は疑わずにそれを受け入れた。

さらに、「自分もそう思ってた」と語る人が増えることで、誤認が正当化されていく。「皆がそうだったのだから、きっと本当だったのだろう」と。


■ 記憶の素材は「体験」ではなく「誰かの語り」

この現象を説明するのに、記憶の研究で知られる「ソース・モニタリング・エラー」という概念が参考になる。これは、ある情報をどこで得たかを間違って記憶してしまう現象である。テレビで見たのか、人に聞いたのか、自分で経験したのか──それを取り違えてしまう。

“重いコンダラ”の誤認は、典型的なソース・モニタリング・エラーである。そしてその背景には、「自分が体験した記憶」よりも、「誰かの語り」によって形成された記憶の方が、むしろリアルに感じられるという皮肉な逆転がある。

人は、信憑性のある語りに触れると、そこに自分の記憶を沿わせてしまう。それが“自分も体験した”と思い込むきっかけになる。


■ 作られた記憶が検証で訂正される時代に

“重いコンダラ”というネタは、今ではすっかり訂正されつつある。ネット上では検証動画も多数存在し、「ローラーは出てこないよ」とする記事も増えた。事実は徐々に明らかになってきている。

だが、ここで浮かび上がるのは単なる勘違いではない。誰かの語りが、人々の記憶を上書きする構造そのものだ。

私たちは日々、見たこともないはずのものを“見た”と思い、経験していないことを“知っていた”と思い込んでいる。その根底には、「自分の記憶は正確である」という無意識の前提がある。だがそれは、社会によって提供された“共有された語り”と、思いのほか簡単に入れ替わる。


■ 結びにかえて

“重いコンダラ”の正体は、過酷なスポ根アニメに対する共通のイメージと、誰かの語りの説得力が結びついて生まれた、ひとつの幻想だった。そしてこの幻想は、実体のないまま、私たちの記憶の中にリアルな映像として沈殿していった。

ローラーを引く飛雄馬の姿を、あなたは本当に見たのだろうか。
それとも、誰かの語った話を、いつの間にか自分の記憶にしてしまったのだろうか。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です