長生きすることは、人類が長らく夢見てきた目標の一つであり、現代医療の進歩によってそれが可能になりつつある。しかし、長生きすることには明るい側面だけでなく、精神的、心理的に悲しい現実も存在する。このエッセイでは、その悲しみの一端について考えてみたい。
まず、長生きすることで避けられないのが、親しい人々との別れである。人はそれぞれ寿命が異なり、長生きするということは、多くの友人や家族を、場合によっては子や孫を先に見送る可能性が高まるということだ。
特に配偶者との別れは深い悲しみをもたらす。長年連れ添ったパートナーが亡くなることは、心の一部を失うような感覚を伴う。さらに、子どもや孫たちの生活が忙しくなり、物理的にも精神的にも距離が生じることで、孤独感が増す。
長生きし過ぎると、昔話に花を咲かせる相手がいなくなるのだ。
次に、時代の変化についていけないという孤立感が挙げられる。技術の進化や社会の価値観の変化は、時に高齢者にとって馴染みにくいものである。例えば、デジタルデバイスやインターネットが普及した現代では、それらを使いこなせない高齢者は疎外感を抱くことがある。
社会から自分が不要な存在であると告げられた気になる。
さらに、伝統的な価値観が失われていく中で、自分の人生観が過去の遺物のように感じられることもある。このような疎外感は、社会との繋がりを断ち切られたような孤独感を助長する。
また、長生きすることで直面するのは、自己の存在意義に対する問いかけである。多くの人は働くことや家族を養うことで社会に貢献し、自分の役割を見出してきた。しかし、高齢になると仕事を退き、子どもたちも独立し、自分の役割が失われたように感じる人が多い。その結果、何のために生きているのか、という問いに直面し、虚無感や無力感に苛まれることがある。
もはや自分に生きる意味はないとすら感じてしまう。
さらに、長生きによる身体的な衰えも精神的な悲しみを引き起こす。加齢に伴い、健康状態が悪化し、日常生活が不自由になることは避けられない。思うように体が動かないことで、自分がかつて持っていた自由や力を失ったと感じる。それに加えて、介護が必要になると、他者に依存せざるを得ない自分に対する自己嫌悪感や屈辱感を抱く人も少なくない。
また、長生きすることで感じる「時間の重さ」についても触れておきたい。人生が長く続くほど、過去の記憶や後悔が蓄積される。それらの記憶は、時に懐かしさをもたらす一方で、取り戻せない時間への悔恨や、もっと別の選択をしていればよかったという後悔を伴うことがある。また、未来が短くなることで、過去の思い出が一層鮮明になり、それに執着してしまうこともある。
こうした悲しみを和らげるためには、長生きに伴う変化を受け入れる心構えが重要だ。親しい人との別れに直面しても、彼らとの思い出を大切にし、別の人と新たな人間関係を築こうとする努力が必要である。この努力は、個人差はあるものの、70代後半まで可能だと考えられる。
また、社会の変化についていく努力を怠らず、学び続けることで疎外感を軽減できるだろう。この点においては、知的活動が比較的維持される70代から80代が適している。さらに、自分自身の存在意義を再発見するために、新しい趣味やこじんまりとしたビジネスを始めることも有益だ。このような活動は、身体的な健康状態に応じて異なるが、70代を中心に広く実践可能である。そして何より、過去を悔やむのではなく、今を基点とする未来を大切にする心構えが求められる。
長生きすることは祝福であると同時に試練でもある。その中で生じる悲しみや孤独を乗り越えるためには、自分自身を肯定し、変化を受け入れる柔軟な心を持つことが大切である。こうした心構えがあれば、長寿がもたらす悲しみを軽減し、豊かな人生を全うすることができるのではないだろうか。
今回は以上とする。