『理屈コネ太郎』が思う保守と革新リベラルの違い

本頁では保守と革新・リベラルについて述べみたい。以下、本頁につづられる内容は、『理屈コネ太郎』の管見内での独断と偏見に満ちたものであることはご銘記のうえ読み進めていただければ幸いである。

さて、始めてみる。

保守とは何かといえば、極論を恐れずに表現すれば、”今まで通りでいいいんじゃね?という考え方。

ああ、日本はいい国だなあ。何か問題が具体的に起きたときは、民主主義的議論と手続きによって改善していけばよい…という立場

革新・リベラルを何かといえば、これまた極論を恐れずに表現すれば、とにかく現状変更を是とする考え方。

ああ、日本はまだまだだなあ。もっとちゃんとするためには、現状の統治機構の中の人達に出て行ってもらおうって立場。

だから、革新・リベラルの人達はつねに問題を探している。いわく、困難に直面している女性、性搾取される女性、不本意な契約によってAV強制出演、相対的貧困、LGBT問題に代表される弱者や少数者を救済しようという姿勢を保っている。

弱者を助けるという意気は良いのだが、そもそもその弱者が本当に存在しているのかが甚だ疑問のケースが多い。

興味深いのは、革新・リベラルが問題視している社会問題の当事者達の生の声が殆ど一切、一般の有権者の耳に届いていないということ。

具体的な政策策定においても、まんべんなく当時者たちからヒアリングをする形跡がないという事。

特に”強者に抑圧された弱者”的な構図を色々なところから見つけ出し、弱者が解放された世の中”的な世界を達成するために多少強引な方法を使わなくちゃダメじゃね?という考え方である。

強者に抑圧された弱者の典型例が、今となっては少し古いし説得力を失いつつあるが、”資本家に搾取される労働者”であり、最近では”悪党どもにAV出演を強要される女性”だったり、多数の人々に差別される性的少数者である。もっと最近だと、”悪いホストに不条理に金を貢がせられる売春までせざるを得ない苦境に立つ若い女子”であったりする。

保守の人々の特徴はといえば、民主主義や法律に重きをおき、手続きを重要視する事である。

そのため問題の認識や改善に非常な時間を要す事が多い。よって保守の動きはトロい。トロいから、本当にトロい人物が長期間居座って偉くなってしまうのが保守だ。

正当な手続きに時間を割いているうちに是正のタイミングを失したり、場合によっては行動している人たちの寿命の方が先に来たりするのが保守。

しかしそれでも、正当な手続きの重視するのが保守である。

一方、革新リベラルの人々の特徴は”目的達成のためなら手段の正当性や合理性や有効性や科学的合理性にはやや、とうか殆ど無関心。

自分が正しいと思ったこと、或いは正しいと見せかけられるような事柄を声高に言い、デモとか集会とかで目に見える形で表現するのが革新リベラル。

多文化共生や難民救済という美しい理念のためには、やや脱法的な手法を用いても自分達が正しいと思う事を押し通そうとする。

さて、ここで『理屈コネ太郎』の立場をちょっと述べておきたい。『理屈コネ太郎』は自由と平和の愛好者である。

ここで言う自由とは、『理屈コネ太郎』だけの自由ではない。全ての人々にとっての自由であり、自分の自由を押し通すために他人の自由を侵害するつもりは全くない。

なぜなら、自分だけの自由を押し通す事は諍いを生み、平和を棄損するからである。だから平和愛好者である『理屈コネ太郎』にとっての自由とは他の人と同じ程度に自由ということ。

自由と平等とは表裏一体の概念。

 とはいえ、生きていれば私の自由が別の誰かの自由を棄損してしまう、あるいはその逆が起こらないとはかぎらない。

 そのような場合は、法で定められた手続きを踏み、法が導きだした最終的の結論には嫌々でも従う、これが『理屈コネ太郎』の考える日本における保守であり、その意味で『理屈コネ太郎』は保守である。

 ときどき見かけるが、保守を、ただ漫然と旧態依然を継続する態度の事だと解釈する人がいる。

 伝統や習慣、前例に縛られ過ぎて、新しい手法や考え方に受容的でない事を保守と早合点する人もいるかもしれない。

 だが保守は現実主義なので、新しい手法や考え方が合理的であれば受容的なのだ。今より生産性の高いある手法には、それがペイすると考えればすぐに取り入れるのが保守だ。

 むしろ他人に先んじて新しい技術や手法を取り入れる事が生き残る、あるいは豊になる事に通じるのだから。

 だから旧態依然とした人や組織を保守的というのは間違っている。自分の頭で考えない怠惰な人達…と呼ぶのが正しいのではなかろうか。

 さて一方、革新リベラルの人たちは、手続き論よりも目指すべき未来に意識が向きすぎて、市井の人々の気持ちや現実での合理性や現場での整合性あるいは実現可能性をあまり重要視していないのかなあ…と『理屈コネ太郎』は思っている。

 AV新法のときもLGBT法の時も、現場の当事者達に殆ど調査をせず、問題の核心を捕まえられず、あるいは実質的には存在しなかった問題をも大問題化させた。

 核廃絶、多文化共生、搾取なき世界、戦争がなく平和で、少数者差別や男女差別のない世界。そういう世界を夢見ない人はいないだろう。

保守は、核攻撃を二度も受けた日本だかこそ三度目の核攻撃は回避したいと考える。

革新・リベラルは、核攻撃を二度も受けた日本だからこそ核廃絶を目指すべきだと言う。

核廃絶以前に、日本が3回目の核攻撃を受けないようにしたいと考えるのが保守だ。

多文化共生の前に、日本人と日本文化を守るのが保守だ。

搾取なき世界の前に、そのそもどこでどういう搾取が行われていて、本当に搾取があるかを知ろうとするのが保守だ。

国家間の平和は関係国の政治体制と軍事力のバランスで成立していると考えるのが保守だ。

少数者差別はいけない事と知りつつも、より大多数の便宜や幸福を優先するのが保守だ。

男女差別がならぬ事は前提として、まず差別の定義を明確にしたうえで、この社会のどこで差別が行われているかを具体性と抽象性をもって認識して議論するのが保守だ。

 革新リベラルの旗振り役の人達が、海外の特殊な勢力によって調略されていないと仮定すれば、保守も革新リヴェラルも、国や社会を良くしたいという思いにそれほど違いはないと思う。

 あくまで。海外特殊勢力に調略されていなければ…の話しだけれど。

 同じ思いなのに、方法論がこれほど違うのは、保守が手続きを重要視するのに対して、革新・リベラルが時に目的が手段を正当化する的な姿勢や行動をとるのはなぜだろう。

 保守は手続きを重視するので、正当な手続きによって選出されたリーダーを、それがたとえどんなに愚鈍な人物でもリーダーとして認めるし担ぐ。

 一方、革新とかリヴェラルって自称したり他者に呼ばれたりする人たちは、目的が正しいなら手段が多少間違っていてもオッケーと考えがちな人が多いような気がする。

 革新・リベラルの人々が革命とか闘争とか、なんか血なまぐさい言葉を21世紀の日本で時々使ったりするので吃驚する。殺人を是認する事すらあるので、かなり引く。

 それから、街中でデモをよくするのも革新リベラルに多いような気がする。保守は、デモは無意味とまでは言わないが、今そこに在る問題点を有効に世界に知ってもらう手段は他にあるので、デモはあまりやらない。

 さらに革新やリベラルという人たちは、どういうわけか地上波のニュースに登場する事が好きっぽい。

 意地悪に考えると、革新・リベラルの人たちマスコミにコンテンツを提供して番組を成立させてマスコミとWinWinの関係をもっているのかも。

 革新リヴェラルが地上波のコンテンツになる場合、あくまで『理屈コネ太郎』の感想だが、実際には存在しない問題、たとえ存在したとしてもそれまでは許容されてきたような小さな問題を大問題のように取り上げるという手法が多いように思える。

あるいは革新リベラルが考える弱者が強者に抑圧されている…ようなステレオタイプ的誤謬を地上波は大好きなようだ。

 革新リべラルの人たちが、国内で憲法九条や戦争反対を日本政府に向けて声高に言うよりも、ロシアや中国や北朝鮮に行って現地政府に向けて主張してくれるともっと面白いし、画面的のも迫力あるコンテンツになるのだが、そうしないのはロケ費用が問題だからかな。

 あるいは逮捕されて国際問題にも発展しかねないから、やはりそういう事はしない方が良いかもね。

 『理屈コネ太郎』が自由と平和を愛好する以上、他者の自由と平和も尊重するが、これらが衝突してしまったときには、法に定められた手続きをもって解決策を探るのが『理屈コネ太郎』の考えである。

 とはいえ、『理屈コネ太郎』が100%保守かといえばそうではない。多民族共生とか核兵器なき社会とか搾取や性差別のない社会とかの理念には共感を覚える。

 そういう世界が早く実現して欲しいと思う。思うけれども、日本政府には多民族共生の前に今現在の国民の困窮を解決する政治をしてほしい。

 核廃絶も目指すべきだけど、現実世界を素朴に見回せば、核廃絶の努力とは別に、日本が3回目の核攻撃を受けないようにあらゆる方略をシミュレーションしたり準備実行するのが2度も核攻撃で無辜の民間人を大量虐殺された日本政府の取るべき方針だと思う(歴史を外交カードに使わない日本の方針には賛成)。

核廃絶を目指してる途中で3度目の核攻撃を受けるようでは、それこそご先祖様になんて申し開きすればよいのだろう。

 まとめると、現実に即した対応を正規の手続きを踏みつつ実行するのが保守で、理想の社会を目指してかなり前のめりなのが革新とかリべラル。

この2つは、一人の人間に同時に宿っていて、人によってどっちが優先かがあるだけのような気がする。時と場合によって入れ替わったりもする。

とはいえ、保守or革新リベラルかの態度を決めるのは、歴史観、人間観、社会観だと思うので、心ある人は常にこれらをアップデイトするように勉強した方がよろしいように思う。

 勉強不足や無知蒙昧の誹りを覚悟で『理屈コネ太郎』の考えを述べてみました。

 どなたかの御役に立てたとしたら幸甚この上ありません。

今回は以上である。

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