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はじめに:「投票に行かない人が悪い」という言葉に違和感はないか?
日本では、政治が混迷するたびに「投票に行かない国民が悪い」といった声があがる。
まるで、現状の政治の劣化は、国民の怠慢や無関心が招いた結果なのだと言わんばかりに。
だが果たして、本当にそうなのだろうか?
以下、今回はちょっと真面目な理屈コネ太郎の私見を述べたい。
私たちはそろそろ、「投票率が低いから政治がダメになる」ではなく、「なぜ投票しても政治が変わらないと国民が思うのか」「なぜ民意が歪められるのか」に目を向けるべきではないか。
政治がダメなのは、本当に国民のせいなのか?
私はそうは思わない。ダメな政治の原因はなにか?
その答えは――選挙制度にある。
民主主義は、いま制度的に誤作動している
日本の国政選挙(衆議院・参議院選挙)は、本来ならば国民の意思を反映する最重要の制度である。
ところが現実には、ノイジーマイノリティー(声の大きな少数派)や、組織票・動員票を背景にした特定の人々の票によって、民主主義は大きく歪められ、多くの普通の国民が困っている。
現職の職業政治家にとって、民意全体を丁寧にくみ取り、社会が本質的に求める方向性を法に反映することよりも、確実に当選させてくれる「自分に投票してくれる人々」の期待に応える方が、職業確保の目的上圧倒的に合理的だからである。
そしてこの構造のなかでは、静かにまじめに働き、投票には行かない──あるいは行けない──多数の国民の声が、制度的に無視されていく。
現行の制度は、「全員に投票の機会が与えられているから公正だ」とされている。
だが実際には、投票率が低いほど組織票や動員票が相対的に強力になるという、ゆがんだバランスのうえに民主主義が成り立っているのが現状である。
無作為抽出という発想:統計が示す民主主義の現実解
ここで考えるべきは、「本当に全員が投票に行かなくては、民意は反映できないのか?」という問いである。
答えは、統計学がすでに与えている。
視聴率や世論調査がそうであるように、民意とは必ずしも全数調査(=全員投票)でなくても、無作為に抽出された適切なサンプルを用いて正確に把握することが可能である。
重要なのは、「民意を代表できるサンプルかどうか」である。
であれば、国政選挙においても、全員が投票する非現実的な制度ではなく、無作為に選ばれた国民にだけ投票義務を課す制度にすればよい。
この発想は突飛ではない。すでに日本には、無作為に市民を抽出して公的判断を求める制度──裁判員制度が存在し、実際に運用されているからである。
裁判員制度という先例がある
この構図を打破するヒントは、刑事裁判の「裁判員制度」にある。
全国民から無作為に市民を抽出し、一定の義務を課して司法判断に参加してもらうこの制度は、無作為性・義務性・情報提供・匿名性といった設計を整えることで、市民による重大な意思決定を制度化できることを示している。
ならば、同じロジックを選挙にも応用できるはずである。
無作為抽出投票人モデルの提案
制度の骨子
全国民から無作為に1,000人を抽出
抽出された人だけが、今回の選挙で投票権を持つ
投票は義務。ただし報酬(例:謝礼金、公的証明書)あり
投票は匿名、名簿非公開。外部からの圧力を排除
中立的な政策解説や候補者情報が事前に提供され、質問機会も用意
この方法がなぜ優れているのか
統計学的に信頼できる:無作為抽出1,000人で母集団の傾向を95%以上の精度で推定可能。
組織票の効果がなくなる:誰が投票するか立候補者も利権当事者も事前に把握できないため、動員・圧力が意味を失う。
社会の縮図を正しく反映:知識の有無を問わず、国民のバランスがそのまま反映される。
参加の心理的ハードルが低い:匿名性、報酬、社会的意義の設計により、負担感は抑えられる。
なぜこの制度が必要なのか:低投票率は利権当事者と既存職業政治家に「戦略的に好都合」だから
低投票率によって組織票の相対的重みが増し、選挙は“民意の選別”ではなく“動員の勝負”になる。この構造は、利権当事者と既存の職業政治家にとって戦略的に極めて都合がよい。
現在の選挙制度こそが、利権当事者らと職業政治家による民主主義の誤作動の原因であり、すべての国民が毎回投票することを前提にするのは制度設計として非現実的である。
だからこそ、この問題は「皆が投票すべき」という理想論ではなく、少ない投票者で民意をくみ取ることが可能な制度論として捉えるべきなのだ。
補論①:ICT投票は選択肢となりうるか?
ICT(ネット・電子)投票は、利便性や即時性の面で期待が大きいが、現時点では
「不正排除」「本人認証と匿名性の両立」「開票操作の信頼性」という根幹的な要件を、制度的・技術的に十分担保できていない。
投票端末の乗っ取り(マルウェア)
家庭内や職場での圧力投票
投票内容の改ざんや不正集計の検証不能性
これらの課題は、単なる技術の問題ではなく、「民主主義の根幹的な信頼構造」に関わる問題である。
一方で、無作為抽出投票人モデルは、以下の理由により現実的かつ導入可能な制度改革である。
住民基本台帳を用いた無作為抽出(裁判員制度で実績あり)
選挙人への通知・辞退受付・名簿非公開といった制度的枠組みがすでに存在
投票所や紙の投票、立会人などの既存インフラをそのまま活用可能
ICT投票と異なり、新しい信頼技術の社会実装を待つ必要がない
つまり、無作為抽出投票人モデルは、既存の制度・インフラ・社会的慣習を組み合わせるだけで導入できる現実解であり、導入コストや国民的不安も最小限に抑えられる。
補論②:開票ミスと責任不在という構造
日本の現行制度では、開票ミスによって票が消失しても、「それが故意でなく、かつ結果に重大な影響を与えていない限り、法的責任を問われない」という構造がある。
実際、2019年の参議院選挙では、票を投じた有権者がいたにもかかわらず、候補者の得票数が「0票」となった事例があった(大阪府堺市美原区)。
大阪高等裁判所は、開票事務に人為的誤りの可能性を否定できないとしつつも、投票用紙の特定性が失われており、誰の票がどの候補者に計上されたかを証明できないとして、住民側の控訴を棄却した。
つまり、「制度上、票が消えても誰も責任を取らない」という状況が既に現実化している。
票の追跡不能性と、責任の不在構造。この2点は、現行選挙制度の大きな脆弱性である。
しかし無作為抽出投票人モデルであれば1000人程度の票の動向を追跡すればよいので、票が消失する事が現実的に予防可能である。
補論③:「投票しない国民が悪い」という言説の危うさ
※この節では、記事冒頭で提起した「政治の劣化を国民のせいにする構造」について、改めてその論理的問題点と制度的影響を整理し、主張の補強を行う。
選挙のたびに耳にする言葉がある──
「政治がだらしないのは、投票に行かない国民のせいだ」というものだ。
一見すると、これは“民主主義的な正論”に聞こえる。
しかし実際には、投票しない人に悪政の責任を押し付けることで、制度や政治そのものの機能不全を免責しているという構造が隠れている。
投票に行かない理由はさまざまだ。
候補者に魅力がない、誰に入れても同じ、投票に意味がないと感じる、物理的な制約、情報不足、不信感、政治そのものへの絶望……
それらをすべて「怠慢だ」「無関心のせいだ」と断じてよいだろうか。
むしろ逆ではないか。
投票に行かない人、行けない人が存在する事が分かっていながら、投票率が高くないと民意をくみ取れない現行制度こそが、政治の劣化を生んでいるのではないか。
現行の「全員参加型選挙」は、形式的には公平に見える。
しかしその制度の裏では、実際には組織票やノイジーマイノリティーの票だけが強く機能し、その他大多数の票は薄く拡散し、実質的に「意味をなさない声」になっている。
この状態で「投票に行かなかったから悪い」と言うのは、あたかも為政者が「政治が機能しないのは、自分たちのせいではなく、投票に行かない国民のせいだ」と責任転嫁しているのに等しい。
それは、制度が国民に責任を課し、国民の無力感を誘発し、国民の無力感を理由に制度が自己正当化を続けるという、負の循環である。
無作為抽出投票人モデルは、この構造を壊す。
全員に形式的に投票権を与えるのではなく、制度としてバランスよく民意を抽出する方法を実装することで、誰かの“行動しなかった責任”に頼らずに、政治を正当に動かす仕組みをつくる。
もちろん少数意見は尊重されるべきである。
しかし、その尊重が過度に優先され、結果として大多数の安全や平和が損なわれるならば、本末転倒である。
活動家、利権当事者、道徳的優越者やノイジーマイノリティーが発する“少数意見らしきもの”(どれだけ少数者の意見を汲み取っているか極めて疑問である)に、国政の意思決定が過剰に影響されたら普通の国民は大いに困る。
無作為抽出投票人モデルは、そのようなノイジーマイノリティーや活動家のバイアスから大多数の国民を守り、不条理な扇動に耐性の高い、静かな合理性をもった民主主義を機能させるものである。
結語:声の大きさではなく、制度で公平をつくる
民主主義は、声の大きさで正当性を決める制度ではない。
ノイジーマイノリティーと職業政治家の共存共栄が続く限り、静かに暮らす多数派は、永遠に政治から取り残される。
しかも政治の堕落の原因を押し付けられて。
私たちは今、「投票率を上げること」よりも、「民意を正確に反映させる選挙制度設計」に目を向けるべきではないか。
裁判員制度で可能だったことが、選挙でできない理由はない。
正しく設計された制度によって民意をすくい上げ、民主主義を機能させる。それこそが、日本国を日本国であり続けさせる方法だと思う。