自分の死に際をどうしたいか…を自分で考える

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人は自然に生まれて来るのではない。人の生は、生物学両親の性行為が発端だから、ある意味で人為的現象である。

しかし、死は、それた人為的な事故や自殺以外であれば自然現象である

要するに人は必ず死ぬ。

死亡率100%である。99でも99.9でもない。精確にドンピシャリ100%だ。この世にこれほど確実な事があるだろうか?

であるならば、不可避である自分の死はどうあるべきなのか、自分の死に際をどうしたいのか、死ぬ瞬間までどう生きたいのか、を考えて準備しておく意味はありそうだ。

必ず起こると分かっている事象に対する準備を怠るのは、考える存在であるホモ・サピエンスの本領を外れている。

そしてもし、自分の死に際を自分の思う通りにしたいと願うなら、つまり死ぬその瞬間ギリギリまで自分の希望通りの生き方をしたいなら、思考力や行動力が伴ううちに死への手筈を整えたいと思うのが、これまたホモ・サピエンスとして当然に合理的だろう。

古来、死は恐怖の対象であった。疫病や貧困や戦争や自己、私闘・私刑などで命を落とし人生を強制的に中断させられた人達は大勢いた。

まさに、死はヒトの行く手を阻む恐怖の対象だった。

故に、死について考える事は禁忌であった。縁起が悪いとされていた。

翻って今日では、85歳くらいまで普通に生きてしまう本邦にあって、果たして死はかつてと同じ意味で恐怖の対象だろうか。

現代でも、30代での死は恐怖の対象だ。それは何十年も前と同じである。

しかし、85歳くらいでの死はこの世の束縛からの解放なのかもしれない。その場合、死は超高齢者とその子供や孫達にとっても解放なのかもしれない。

大切な家族を送ることは、ある意味においてそれまでの世界観の変更が強いられる行為である。であるが故に、人は愛する人の老化と死を自分の老化と死に投射できるようになるのである。

まだ日本文化に呪術や言霊信仰が残っていた近代以前、死について語る事は不吉なことだった。忌み嫌うべきことだった。

だが最近は大分様変わりした。自分の死に際を考えることは、自分の生き様を考える事と表裏一体であると多くの人が気付いてきた。

家族や近親者に超高齢者を持つ人達の殆どが、あのようになってまで自分は生きていたいと思っていない。然るべき時期に、然るべきあり方でこの世を卒業したいなあ…って思ってもいる。

しかしその想いと裏腹に、超高齢者の家族や近親者にはいつまでのそこに居て欲しいと願ってもいる。生き続けて欲しいと。

この家族や近親者の愛が、超高齢者から適切な時期と適切なあり方での、この世からの卒業の機会を奪っているのかもしれない。

だから、人の死はどうあるべきかを考え、自分の死に際をどうしたいのか、まだまだ知力と理性のあるうちに十分に考えておきたい。

人によってはそうした思考のなかで、合理的思考の帰結として今生からの卒業の方法を戦略的かつ戦術的に組み立てる人も少数だがいると思う。

何も考えずに医療と家族に任せていては、死ぬべきタイミングを失ってしまうかもしれない。

高齢化し衰弱する身体と低下する思考力。それでも生きようとする意思がお持ちならそれは立派だし、それでも生きていて欲しいと願う家族がいるとしたら羨ましいかぎりだ。

しかし話を元にもどすと、どんなに治療を受けようと、どんなに家族から生きていて欲しいと願われていても、それでも人は必ず死ぬのだ。

そう考えたとき、合理的思考の結論として、自ら今生からの卒業を選ぶ人は昔からいた。

超高齢者がインフルエンザや肺炎の予防接種を受けて医療従事者の次の新型コロナワクチン接種の対象になる今、自分の死に方を塾考して、死への心の準備をする時代に突入しつつあると『理屈コネ太郎』は考えている。

人間の寿命が延びても、最後の15年くらいは自分では大切な判断を許されず、歩く事もままならない生活となる人が多い。

もはや、自分らしく生きられない時間を多くの人が15年くらい生きることになる。

人が懸命に生き、その人らしく生きたと納得できたなら、もしかしたら、その時がこの世からの卒業のタイミングなのかもしれないなあ…と考える最近の『理屈コネ太郎』です。

人の出生は生物学両親の人為的行為である。人の死は自然の必定である。必ず死ぬ時が来ると分かっていながら、それに対する準備を怠る事はあまり勧められるべきではないなあ…と『理屈コネ太郎』は思っています。

今回は以上。

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