司馬遼太郎著『龍馬がゆく』

いつものように間違いがあってもスルーでお願い。

司馬遼太郎の『龍馬がゆく』は知らぬ人がいない程の名作だ。数多ある明治維新物語群のなので、ダントツの知名度である。本作の面白さは本物!

『理屈コネ太郎』も本作を読んで胸を焦がし、涙を流した1人だ。

なので、ここではこの本作の内容については触れない。

私がここで注意したいのは、かなり多くの日本人が無自覚に司馬遼太郎著『龍馬がゆく』を起原とする言説に基づいた知識で明治維新を理解している事だ。

そのヘンテコさは、池田理代子著『ベルサイユのばら』を起原とする知識のみでフランス革命を理解することに似ている。

『ベルサイユのばら』ももちろん名作だ。日本人の心象風景に溶け込んでいて、もはや古典とさえ呼んでいいと思う。

『ベルサイユのばら』のファンはそれが歴史に取材してはいるが、あくまで娯楽目的のフィクションであることを理解している。

そういうわけだから『ベルサイユのばら』を読んだ経験がある人でもフランス革命について言及するときは、明確に意識的に物語と歴史を別の概念として分離して考えようとする。

『ベルサイユのばら』起原の知識でフランス革命を語る事は、まるで冗談のような、滑稽な行動であるとわかっている。

ところが、日本人が明治維新について言及するときは、どういうわけか、もう全く無批判に『龍馬がゆく』に代表される明治維新物語群に頼り切っていることに無自覚なのだ。

特に本作の主人公、坂本龍馬については全く無批判に美化し英雄視している。

そもそも、彼はどうやって生活費や活動費を工面していたのかすら説明されていないのに。

いやもしかすると、殆どの日本人の意識には歴史的な意味での明治維新は存在せず、娯楽として編み出された物語の明治維新があるのかもしれない。

そしてそうした物語の代表格が『龍馬がゆく』なのかもしれない。

要するに半分だけ、ガンダムトークと同じ構造だ。

ガンダムが好きな人は、ガンダム物語群をネタにいくらでも夢中で語り合う事ができる。

この点が明治維新好きに良く似ている。

だがどんなにガンダムについて熱く語ってる人でも、自分がフィクションについて語っている事ははっきりと自覚している。

この点は明治維新好きとは全く異なる。

なんとも不思議な現象だと『理屈コネ太郎』は思う。

ところで、明治維新好きと『龍馬がゆく』に代表される明治維新フィクション群との関係性が、真逆な場合もある。

山本周五郎著『赤ひげ診療譚』がそれである。しかし、この話はまた別の投稿で話しているので、そちら(当サイト内当該頁を開く)を読んでみて欲しい。

あと何十年かすると、『るろうに剣心』を根拠に維新後の近代化を語る近代史好きが現れたりして…。

今回は以上。

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