嗚呼、空手!寸止めvsフルコンの歴史と未来を語る私見

ご存知の通り、空手は2020 Tokyo Olympic の正式競技になった。

基本的には、全空連が所属する世界空手連盟(WKF)のルールに従って、組手と型の競技が行われる。

寸止めとか、フルコンタクトとか、伝統派とか──空手にはいろいろな種類がある。それは競技方式による分類であったり、練習体系による分類であったり、修練の目的による分類であったり、思想による分類であったりする。

空手は沖縄発祥である。大正時代、多くの沖縄の唐手家たちによって本土への空手の紹介が行われた。

その中には、実戦派の本部朝基もいれば、教育者であった船越義珍もいた。船越は先取の精神にあふれ、講道館で演武を行った記録も残っている。

ただ、すでに乱捕りを実践していた講道館にとって、船越の型だけの唐手はやや説得力に欠けていたようだ。

ほどなくして、唐手の実践性を試すための乱捕り稽古──現在でいう組手稽古──の必要性を主張する声が上がってくるのは自然な流れである。

もっとも、船越義珍本人は唐手の乱捕り稽古には反対だったと言われる。それも理解はできる。なにしろ唐手の技術は、まともに当たれば非常に危険なのだ。

だからこその寸止め、防具組手、そして顔面なしのフルコンタクトなど、多様な発展が生まれたのだろう。


Contents

本土への定着と変化

沖縄から紹介された唐手は、本土に土着の柔術と習合したり、自由組手の稽古法について研究されたり、弟子たちの精進によって、本土独自の技術進歩を遂げた。そして「空手」を名乗るようになり、沖縄でも現在は「唐手」ではなく「空手」の呼称が一般的になっている。

本土では、糸東流、和道流、松濤館流、剛柔流が四大流派として認知されるようになった。

昭和39年1月、空手諸流派の統一的秩序をもたらすことを目的に、日本空手道連盟(以下、全空連)が発足。参加したのは、中山正敏、大塚博紀、山口剛玄など当時の重鎮たちであった。全空連での組手試合は、顔面への徒手攻撃も範囲内としたうえでの「寸止め」を採用している。

同じ昭和39年4月、極真会館が徒手による顔面攻撃以外は実際に打ち合う形式のフルコンタクト試合を提唱。それ以前の空手は「寸止め空手」あるいは「伝統派空手」と呼ばれて区別されるようになった。

当時、直接打撃制による試合形式は非常に大きな技術革新であり、空手界に衝撃を与えた。

こうして、試合形式を主な相違点として、寸止め空手とフルコンタクトカラテが二大潮流として現在の空手界に存在することになった。


二大潮流の関係と背景

この二つの潮流は長らくイデオロギー闘争を繰り広げ、数年前までは一緒に練習することすら難しかった。

ここで『理屈コネ太郎』はあえて「イデオロギー闘争」と書いたが、実際のところ、多分に新興のフルコンタクトカラテ側によるマーケティング戦略という、大人の事情で犬猿の仲に仕向けられていたように思う。
要するに、生徒の奪い合いに過ぎなかったのだ。

特にフルコンタクト側の、漫画やアニメなどを取り入れたメディアミックスと、組手試合競技の興行化は、短期間で組織を大きく成長させることに成功した。


内部事情と分派

全空連や極真会館がそれぞれ一枚岩かといえば、実際には全くそうではない。

全空連は流派・会派間で稽古や試合に対する考え方が異なり、錬武会の防具組手が目立つ例だ。

極真会館も、様々な理由(多くは大人の理由)から高弟たちが分離独立し、それぞれに一家を成した。

全空連では、主催大会の名称使用権を巡って、松濤館流最大の団体である日本空手協会(以下、空手協会)が全空連を離脱(2020年8月時点で復帰確認済)。また、空手協会の目指す技術や試合の在り方は、全空連が採用する国際空手連盟的空手と相性が悪く、協会選手は全空連の試合では勝ちにくくなっている。そのため、協会選手は協会主催の試合に主軸を置く傾向がある。

極真会館も、創始者の大山倍達(民族名:崔永宜)存命中から高弟の独立は多かったが、大山の他界後はさらに分派が進んだ。現在、極真会系の最大団体は、緑健児率いる新極真会とされる。


良い兆し

このように混沌とした本土の空手史だが、三つほど良い兆候がある。

  1. 2020 Tokyo Olympicでの正式種目化
    ただしこれは東京大会限定で、次回大会からは外れる見込み。

  2. 流派・形式を超えた交流
    イデオロギー闘争の恩讐を超えて、素直な心で多くの流派や、伝統派・フルコンタクトカラテの良い点を吸収しようとする人が増えた。
    中高年の空手ファンは、流派間の争いや生徒奪い合いに疲弊している。

  3. 全空連と極真会館の協力
    東京大会に向けて協力体制が整った。ただし東京大会以降は不透明。


未来への問い

ここまで、私の管見による私見で本土の空手を俯瞰してみた。

沖縄には、もっと血なまぐさい歴史があるのかもしれないし、同業者として流派同士が意外と仲良くしていた時期もあったのかもしれない。

さて、ここからは空手の未来に目を向けたい。
これからの社会で空手は生き残れるだろうか。極論を恐れずに問うならば、空手で生活できる人は存在し続けられるだろうか──。

これである。

このことについては、また考えがまとまったら、この頁に追加していくこととする。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です