指導と叱責の具体的な外形的な違いを、『指導と叱責の違い① 職場における決定的な差』にリストアップしたので、ここでは、なぜ叱責、ひいてはパワーハラスメント(以下パワハラ)的な事が起こるのかについて、すこし心理的な側面から説明したい。
叱責がなぜアウトな行動なのか…の説明はココをクリック。
ここで記述することは、あくまで『理屈コネ太郎』の管見内での私見である旨を銘記して読み進めて戴ければ幸いである。
また、本ページでは心理的な側面から叱責やハラスメントを解釈するが、あくまで『理屈コネ太郎』の経験則内での分析であり、心理学の知見ではないのでその旨もご承知おき戴きたい。
さて、結論から述べよう。
指導が叱責やパワハラと部下や後輩にとらえられてしまう原因は、上司・先輩の”侮り”や”傲り”にある。
職位的に上位の自分は、職位的下位である部下や後輩に対して自分の怒りや不快を遠慮せずに表現してもよい…という傲りと侮りである。完全な思い違いだ。
こうした思い違いを持つ人は、自分よりも職位的上位者には十分に配慮して接する事ができる。分別というか、社会性はある程度に持ち合わせているのだ。
もし、上司や先輩に対しても、自分の怒りや不快を表現する人がいたとしたら、その人は全く社会化されていない野生の人物だろう。
組織の中にこういう野生の人物の居場所はない。
しかし、上位者に対しては配慮できるのに、下位者に対しては配慮しないという人は組織の中に一定程度の割合で存在できてしまう。
そして、上位者に対しては十分に社会的態度を取る一方で、下位者には野生の心理を表出しても良いと考えるかなり中途半端な社会性の持ち主こそがパワハラを行うのである。
いかに丁寧な言葉使いを用いようと、発話者の気持ちは言葉に乗っかってしまう。
人間同士、自分に向けられた敬意や配慮や傲りや侮りの感情は互いに敏感に感じ取れてしまうのだ。
パワハラの定義が話題になるとき、”被害者がそうと感じたらそれはパワハラなのだ…”とはこの意味において正しいのである。
ここで誤解しないで戴きたいのは、不快や怒りの感情そのものがパワハラの原因ではなく、不快や怒りの(時に嫌悪や劣情)感情を下位者に対しては表出してもよいと考える傲りと侮りがパワハラを生むのだということ。
よき社会人は、上位者下位者関係なく、自身の怒りや不快感の表出を適切にコントロールするものである。
しかしながら、叱責やハラスメントを行う人は、上位者に対しては怒りや不快の表出を巧みにコントロールする一方で、下位者に対しては遠慮がない。
もしかしたら遠慮してるかも知れないが、下位者に対する遠慮は上位者に対する時ほどは効いていない。
つまり、叱責者やハラスメント者が持つ社会性の中には、上位者と下位者への明確な違いがあり、下位者に対しては自身の怒りや不快の感情を表現してよいとの誤解がある。
この誤解を、傲りや侮りと呼ばずしてなんと呼ぼう。
この誤解を修正しない限り、外形的な現象のみの視点で叱責やハラスメントの予防や再発対策を講じても殆ど無意味だろう。
怒りや不快感の表出は、上位者には法度だが下位者には許容されているという誤った社会性を、認知の歪みとして捉え、メタ認知的な思考法のトレーニングを経験してもらう事でかなりの予防効果を得る事が出来る。
ここで注意して戴きたいのは、傲りや侮りが性格や気質だけの問題ではない点である。
社会や人間全般に対する誤解が最も大きな原因なのだ。
性格や気質であれば、それはもう対策のしようがないが、誤解であるのなら、その誤解を解くことで、叱責やハラスメントを行う問題職員の行動を改善する事が出来る。
叱責やハラスメントの問題は、教育やトレーニングでかなりの改善を得られるのである。
そして教育やトレーニングを実施する決断をするのは経営層なのである。
以上。
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