この国の閉塞感の原因は死の哲学の欠如と、個人の能力差への不寛容

何となく閉塞感を感じている諸兄に向けて、その根本原因について『理屈コネ太郎』の管見による独断と偏見に満ちた私見を述べたい。

この国の閉塞感の原因は、人間ならば当たり前の2つの現象から長きにわたり目を背けてながら構築された社会構造の制度疲労なのではなかろうか?

人間ならば、死亡率100%。必ず死ぬ。必ず死ぬから、死に際をどうするか?そこに向けてどう生きるか?という生きる意味とか生き方とかについてある種の哲学的思考に意味を見出すはずなのだが、日本人にはこの考え方がない。

妊娠可能年齢かつ分別ある女性なら、性行為の結果として妊娠や性感染症の蓋然性を視野に入れて避妊なりの行為における手段を検討するというのに。

死は妊娠やSTD以上に確実な未来なのに、そこに眼を向けようとしない日本社会。

言霊信仰と呼ぶべきなのか、死について考えたり語ったりすることも縁起が悪いという理由で忌避されがちだ。

さらにもうひとつ日本社会の歪みは、生まれた時期ごとの教育内容の限定性である。

個人差、精確には思考や運動や着想や想像力における能力差に全く無関心な公教育。

小学生には連立方程式を教えずに、鶴亀算という手法を教えている。小学生がテストで連立方程式を使って正解を得ても、それは間違いと判定されてしまうのだ。この方法以外でやっちゃダメよって事らしい。

そんなだから、もちろん飛び級はない。

落ちこぼれを出さない、そして優秀者も出さない。役所が定めた上下の範囲のなか居なくてはならない。

死を受け入れ、自分の生を考え、自分の得意な事や好きな能力を伸ばし、苦手な事がある事や敗北を時に受け入れ、自分の力で欺瞞と無知だらけの人の世を生き、時に同志と出会い、ときに決別し、そうしながら明日を自分の力で切り開く。

そういう人間がこの国から出てくるとは『理屈コネ太郎』にはとうてい思えない。

決められた事を決められた手順でそつなくこなす人間を、大量に、短期間に、低コストで選抜するだけの公教育と、自分の死に際も考えていない高齢者ばかりのこの国では、ユニコーン企業もビッグバンも、そりゃ滅多に起きないと思う。

いつか死ぬ自分の明日を最大限に価値向上したいなら、この国にいても可能性は薄いなあ…と思う『理屈コネ太郎』

 

今回は以上

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