本書の帯には、獲って、食べて、のぼる! とある。本書はまさにこの3点について書かれた本。
著者の服部文祥は登山家なので、山での獲って・食べてになる。このスタイルには、服部の思想が深く入り込んでいて、なかなかに興味深い。
私『理屈コネ太郎』は都会生まれの都会育ちで、虫とか変な顔した魚が苦手である。魚というものは、切り身がワサビを抱いて刺身として海の中で泳いでいるものだと、小学生くらいまでは思っていた。
人間が生命の維持するためには、自分より弱い生き物を食べなくてはならない。それは必然的に生物の命を奪う事そのものだ。当たり前の事なのだが、現代人は殆ど対峙していない現実である。
『理屈コネ太郎』は、職業的に食物生産にまつわる行為、例えば活き〆とか、屠殺とかは、斯道のプロフェッショナルだけに道義的に許される行為であり、素人が遊び半分でやってよい行為ではないと思っていた。私のような単純な消費者は、そうしたプロフェッショナル達から購入して生活すれば良いとの考えを理由に無知を決め込んでいた。。
しかし最近になり、心境に少し変化が出てきた。田や畑で農作物を作るには、イノシシなどの害獣から作物を守らなくはならない。商品として市場に出す作物には虫の食い穴が開いていてはいけない。食物の生産・採取には膨大な知恵と労力が必要であり、そして時に大きなリスクも孕んでいる。
私が普段生活できているのは、電車や電気・ガス・水道・通信などのインフラがあるからだ。そしてそのもっと上流、もっと社会の出発点に近いところで、自然から食物を取り出す行為が行われていて、ゆえに『理屈コネ太郎』のような都会人が食物不足など微塵も考えずに生活できていることに最近気づいたのである。
『理屈コネ太郎』は、この社会の一員として生きるうえで、こうした社会の出発点部分で行われている、食物生産採取の過程についてもう少し知っておくべき責任があるような気がし始めたのだ。
服部文祥の、食物調達を貨幣経済に頼らず、自らの肉体で食物調達し登山するという姿勢にある種の共感を感じたのである。
自分で狩りをし、釣りをし、山菜等を採取して(家からの米持参は仕方ない。だって水田稲作は1人でその場で出来るものではないからだ)、自らの肉体維持とカロリー摂取を実行して明日の行動を担保する。
一見原始的に見えるが、実は現代社会における食糧生産と消費を1人で凝縮的に体験するという野心的な試みなのである。
なにも作者のような生き方や生活を真似る必要はない。著者は登山家であり、原野のプロなのだ。彼の行動は私のようなヘッポコが真似できるものでは決してない。
しかし本書に書かれた、自然から食物を調達し、それをエネルギーと蛋白源にして登山をするという試みは、私には大変に参考になる知識や知恵の連続であった。
オフィスワークやICTに疲れた時には是非手にしてもらいたい一冊である。1人の社会人ではなく、1匹の動物として、自分の内にある野生に気が付けるかも知れない。