セカンドライフの成否を左右する「死生観」のリアル

セカンドライフをどう生きるか——この設計において「死生観」は避けて通れないテーマだ。
なにしろ、セカンドライフは人生最高のパフォーマンスを発揮する50~60代にスタートし、必ず「死」で幕を閉じる。
その事実から目を背けたままでは、セカンドライフ全体がどこか宙ぶらりんで不本意なものになりかねない。

実際、死をどう捉えるかは、セカンドライフの方針を大きく左右する。
にもかかわらず、「死」を具体的に考えたり、人生設計に組み込んでいる人は驚くほど少ない。
その背景には、日本人特有の死への忌避感があるのかもしれない。

ところで、人間は受精から出生まで、驚くほど似たプロセスを辿る。
しかし、生まれてから後の人生、とくに成体になってからの個人差は、地球上の生物の中でも際立っている。
このあまりに大きな個人差は、親や生まれた環境によって左右される部分が大きく、「親ガチャ」という言葉にも象徴されている。

一方で、親からすれば「子ガチャ」と言いたくなる気持ちも理解できる。
ただ、この言葉をあまり見かけないのは、人間社会にまだ救いが残っている証拠かもしれない。

そんな親ガチャ・子ガチャ論はさておき、「人は必ず死ぬ」という事実だけは全員に共通する。
にもかかわらず、多くの日本人は「死」を人生設計に織り込むことを避けている。

これは、おそらく日本文化の特質だろう。
死を口にするだけで縁起が悪いと言われる。
死を語ること自体がタブー視されてきた。

対して、海外、特に一神教文化圏では、死をもっとフラットに語る。
そこには宗教の役割が大きい。
宗教が「死後の世界」について明確なシナリオを示し、死は単なる通過点であり、死後にどこへ行くかは生前の行い次第——という考え方が根付いている。

日本にも宗教はあるが、戦後教育の影響か、日本神話や歴史観と共に「死生観を形成する基盤」が希薄になった。
その結果、多くの日本人は「死はできるだけ考えたくないもの」「触れてはいけないもの」として封印してしまったのかもしれない。

だが、『理屈コネ太郎』の考えは少し違う。
死とは「無に帰ること」であり、生命現象を支えてきた物質が、単なる分子や原子に戻るだけの出来事だ。
自然に還る最初の現象、それが死である。

天国や地獄はあくまで物語の世界の話。
だから、死に伴う苦痛は怖いが、「死そのもの」は恐れていない。
死をリアルに受け止めているからこそ、「死で終わるセカンドライフ」を真剣に設計できるのだ。

こうした死生観を持てるのは、幸運なことだろう。
実際、人生最高パフォーマンスを発揮できる年齢に達しても、突然の病気や事故でこの世を去る人も少なくない。
今こうして死生観をテーマにセカンドライフを考えられること自体、恵まれた時間と言える。

では、どうすれば自分なりの死生観を築けるのか。
ヒントは、宗教・哲学・思想史にある。
古今東西、死はいつの時代も最大のテーマだった。
特に、紀元前から連綿と続く宗教には、現代人が参考にできる示唆が満ちている。
信じるかどうかはさておき、第三者的な視点で学んでみるのは悪くない。

そして、もうひとつ大切なのは、「不確実な未来をどう見積もるか」という視点だ。
セカンドライフには、想定外の出来事がつきもの。
その不確実性をあらかじめ想定し、複数シナリオをExcelでシミュレーションする「モンテカルロ法」も、意外に役立つ。

Windows標準のExcelでも十分実施できるので、興味があれば当サイト内の「ココ」を覗いてみてほしい。

必ず訪れる「死」を前提に、どう生きるか。
そのリアルな問いに、あなた自身の答えを出してほしい。

今回は以上。
他にもセカンドライフ設計のヒントをまとめた記事があるので、よければ下記からご覧いただきたい。

生活のヒント一覧表|Life Hackで人生はスイスイスイ!
引退医師が提案するセカンドライフ記事一覧:定年後の新しい生き方
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