人生は、選択の余地を与えられないところから始まる。誰も自分の意志で生まれる時代や国、親を選ぶことはできないし、そもそも「生まれたい」と願ってこの世に出てきたわけではない。私たちが与えられるのは、自分の力ではどうにもならない状況と環境だ。この「押し付けられた人生」にどう向き合うべきか。これは古今東西の哲学者や思想家たちが考察を重ねてきた根源的な問いである。
例えば、エピクテトスは「人間はコントロールできるものとできないものを見極め、それを受け入れることで自由を得る」と説いた。生まれる環境は完全にコントロールの外にあるが、与えられた状況をどう捉え、どう行動するかは私たち次第だと彼は考えた。この考え方は、現代でも十分に通用する。どれほど不運な環境に生まれたとしても、その環境の中で可能な範囲で選択し、前に進むことはできるという希望を持つことは出来る。
また、アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソンも、与えられた人生をどう受け止めるかに焦点を当てた。彼は「自己信頼」を説き、自分の人生の独自性を尊重することが幸福につながると主張した。エマーソンは、自分が生まれた環境や状況を否定するのではなく、それらを受け入れた上で、自分自身の価値を見出すことを重要視した。彼の思想は、押し付けられた人生に直面する私たちにとって励みとなる。
近代においても、ヴィクトール・フランクルは同様の視点を提供している。彼はナチスの強制収容所という極限状況を経験し、その中で「人生の意味を見出す力」を説いた。フランクルは、「私たちは状況を完全に選べないが、その中でどのように生きるかを選ぶ自由は常にある」と述べた。押し付けられた不条理な環境の中でも、意味を見出すことで人間は精神的に自由でいられるという彼の思想は、多くの人に生きる勇気を与えている。
こうした賢哲たちの思想には共通して、人生の始まりが「押し付けられたものである」という事実を直視しつつ、それを受け入れる姿勢が見られる。彼らは環境に翻弄されるだけではなく、限られた条件の中で自分の生き方を見出そうとした。その姿勢は、現代に生きる私たちにもヒントとなりえる。
しかし、現実に目を向ければ、押し付けられた人生を重荷と感じる瞬間は多い。たとえば、貧困や差別、暴力、不安定な家庭環境など、自分ではどうにもできない困難に直面する人々は少なくない。そのような中で、どのようにして希望を見出すべきなのか。それは決して簡単な問いではない。
それでも、フランクルのように極限状況を経験した人々の声が示すのは、どれほど困難な状況であっても「生き続けること」に価値があるということである。人生の押し付けられた部分を乗り越えるには、まず「今ここ」を受け入れ、その中で自分にできる小さな選択を積み重ねることが重要だ。
生まれることを選べなかった私たちは、その事実に苦しむことがあるとしても、「どう生きるか」という問いに立ち返ることで未来をある程度は切り開くことができる。押し付けられた人生に立ち向かうために必要なのは、自分なりの意味を見つけ出すことだ。それは一見些細なことかもしれないが、それが積み重なれば、逆転もあり得るだろうし、すくなくとも人生に折々に光を見出す事ができる。
生物は生まれたくて生まれたわけではない。それでも、とりあえず生き続けてみるって事が大切なのかも。その中で、自分だけの意味や喜びを見つける自由がきっとあるはずだから。
理屈コネ太郎の場合、とにかく出来るだけ遊ぶ事で限定された自由を最大限に謳歌している。
今回は以上。
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