趣味としてのバイクの行方はヤバイ気がする

以下、全て『理屈コネ太郎』の管見内の私見である旨をご理解のうえ読み進めて戴きたい。

日本の行政当局は、国民に”遊ぶ事”を認めない。遊びは危険だと考えているフシがある。

行政当局は危険な事を法で禁止するだけで、国民がより健全に遊ぶにはどのような法体系を整備するべきなのかという思想がない。

危険と思われる事柄を禁止して、国民の安全と財産を守っているのだ。その考え方には一理あるし、1国民として感謝もしている。国民から危険から守ってくれているのだ。

しかし、イノベーションというものは、遊びの中から生まれて来るものもあるのだ。だから、遊びを実質禁止された国からはイノベーションは生まれて来ないのである。お蔭で日本ではエクストリームな事は起きないのだ。

日本発のイノベーションが少ないのは、それは日本人に遊ぶことを許さない行政当局が作る法や規制とは無関係ではないだろう。

さて、ハナシをモーターサイクルに戻そう。

モーターサイクルは、その危険性故に常に行政当局から規制と監視と取り締まりの対象となってきた。しかし日本政府、外国からの圧力には滅法弱いと来ている。

例えば排気量別の免許制度。中型から大型への限定解除は以前は司法試験並みに困難と言われたものだ。しかしハーレーが日本に進出したいと米国が言いだして限定解除が大型自動2輪免許として教習所で取得できるようになった。

もう50年も前の流行った言葉”外圧”である。

日本人には日本の規制を自分の思考と行動力で合理的に緩和できず、常に米国の貿易赤字(米国にとっての)解消のため、米国からすれば日本へバイクやクルマを輸出しやすくするために日本国内の規制の変更を求めて来た歴史がある。

代表的な例では、クルマのドアミラーが解禁になったのも、アメリカにはフェンダーミラー車をつくって日本に輸出する気はなかったから、ドアミラーの米国車を日本が受け入れるために日本側にフェンダーミラー規制を撤廃させたのだ。

これが、日本行政のクルマやモーターサイクルに関するやり方なのだ。日本の役人はクルマはまだしも、それよりも圧倒的にパイの小さい小さいモーターサイクルなど眼中に全然ない。

日本のモーターサイクル産業が凋落しても、それはそれでオッケー位に思っているように思われる。

と、そのころ、海の向こうの幾つかの国では、スポーツ用電動アシスト自転車が成熟期を迎え、電動オートバイが公道を走るか走らないかって所まで来ている。

社会の安全・安心・確実への希求、保険会社のリスク回避当の要請から考えると、そもそも生身を晒して公道を、自動車と一緒に走るモーターサイクルの行く道は茨の道だと思う。

皆さん覚えているだろうか。石原慎太郎都知事時代、一部のディーゼル車両を都内走行不可にした事を。

モーターサイクルが仮に脱ガソリン化を果たし完全電動化しても、モーターサイクルはその特性が故に生身を晒して公道を走る乗物だ。カーボンニュートラルを実現できても、自動車に比べると圧倒的に高い危険性は消えない。

そう考えると、世間や行政からモーターサイクルに注がれる視線や要求はますます厳しいものになっていくと『理屈コネ太郎』は考えている。

モーターサイクルがややアウトロー気質をまといながら突っ走っている間に、世間はモーターサイクルを社会では不要と考えるかもしれない。

似た様な現象が、タバコに起きた。

悪ぶって大人のフリしてムリして覚えたタバコ。その喫煙者たちが置かれて現状を考えると他人事には思えない。

音の大きいバイクに乗っている人達の将来に重なって思えてしまうのは『理屈コネ太郎』だけだろうか。

でも、とりあえず今はバイクを愉しんじゃうけど。

理屈コネ太郎のバイク遍歴』へは”ココ”をクリック

クルマとかバイクとかカメラとか腕時計とか』へは”ココ”をクリック

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です