人生を考えるとき、友人は多い方が良いというプロパガンダの影響を受けた我々には、まず浮かぶのは孤独への不安だ。しかし、よくよく考えてみれば、孤独はそれ自体は恐れるべきものではない。それどころか、退屈さえしなければ、孤独はむしろ自由を享受するための贈り物と言えるのではないだろうか。
人生の本質とは、自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取ることだ。若い頃は、他者とのつながりや社会的な役割の中で、そうした「自己責任の自由」を見失いがちである。家庭や職場、友人関係の中で、自分の本心を抑え、周囲に調和することを優先する場面も多いだろう。しかし、例えばセカンドステージでは、そうした束縛から解放され、自分自身と向き合う時間が豊富に与えられる。これは一見、寂寥感をともなった孤独に映るが、自分で自分を充実させる力を身に着けた者にとっては、無限の可能性を秘めた時間だ。
セカンドステージを充実させる鍵は、とりあえず「やりたいな」と感じたことをやってみることであろう。例えば、新しい趣味を始める(理屈コネ太郎が最近始めた事についてはココをクリック)、旅に出る、知識を深めるなど、その選択肢は無限にある。今この瞬間にも、地球上の何処かで誰かが新しい遊びを開発している。
もちろん、挑戦にはリスクが伴う。しかし、成功も失敗も含めて自分の選択の結果を受け止めることで、自由の本当の喜びを味わうことができる。孤独とは、自己責任を持つ自由を引き受けるための最良の環境なのだ。
さらに、人は孤独に生活しているように見えても、完全に孤立しているわけではない。自らの人生の道を進む中で、自分と同じように独自の道を歩む他者と折々に出会う。その瞬間、それぞれの道が交差し、互いに影響を与え合う。こうした偶然の出会いは、人生の孤独を彩る大切なスパイスである。たとえ一時的な交わりだとしても、それらの出会いを大切にし、感謝する気持ちを持てば、孤独は怖くない。自分と同様に己の道を歩く他者の存在を知れば、人生は豊かで、彩が多くなる。
私たちの多くは、孤独を寂しさの同義語として捉えてしまいがちだが、実はそれは半分以上は誤解である。孤独とは、伴走者が居ない事、自分だけの時間を持つこと、自分のペースで生きること、そして、自分の価値観を実践することである。これらを楽しむ精神性を身に着ければ、セカンドステージも含めて人生は驚くほど楽しいものになるはずだ。
特にセカンドステージは、人生の後半戦ではあるが、それは閉塞の時ではない。むしろ、これまで積み上げてきた経験と知恵を行動力によって美味しい果実と育て上げて収穫する時期である。そしてその収穫祭には、あなたが招待したいと思う人々だけが訪れる。そうした自己選択と自己表現の空間こそ、退屈を遠ざけ、孤独を心地よいものに変える。
だからこそ、退屈しないことが重要だ。セカンドステージを豊かにするには、自分を楽しませる力、自分を育て続ける力を養うことだ。課題をみつけたり興味を抱いたり、行動したり挑戦したりすること。そして、道が交差する他者との出会いを楽しみ、それをきっかけに新しい世界を広げていく。この2つが揃えば、孤独は単なる状態に過ぎず、むしろ人生の果実を収穫の時代となるだろう。
セカンドステージは孤独が避けられない、と多くの人は言う。それはそうかもしれない。伴走者はいないかもしれない。しかし、退屈さえしなければ、孤独は恐れるに足らない。そして、孤独であることは、自由であることの証でもあるのだ。あなたはあなたの道を歩いている。そしてその道には、ひととき交差する他者の足跡がある。人生を豊かにするのは、そうした瞬間を愛し、自分を見失わずに進むことなのだ。
今回は以上。