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じゃんけんに勝ち続ける人は強運なのか?
「じゃんけんトーナメントの優勝者に、勝利の秘訣を聞く意味はあるか?」
この問いに対する『理屈コネ太郎』の答えは、“ない” である。
例えば、1,048,576人(2の20乗)が参加する大規模トーナメントを考えてみよう。最後まで勝ち残る確率は 1/1,048,576(約0.00000095)。つまり、優勝者が勝ち抜いたのは極めて低確率な出来事だ。
ではこの人物は、「運が強い」のだろうか?
確率論的にあり得ることは、誰かが体現する
確率上、誰かが必ず優勝する。それが**“たまたま彼だった”**だけのことだ。
じゃんけんに強い「技術」がない限り、彼は単に確率の波に乗ったに過ぎない。
だが、「自分は強運だ」と主張する人物が、「優勝者から運を強くする方法を学ぶべき」と語る姿に、筆者は奇妙な魅力を感じた。
じゃんけんの運を強化できると本気で信じているというのだから。
コイントスと確率の“偏り”をどう見るか
正確に作られた硬貨を連続でトスしても、「表→裏→表→裏」などと交互になるとは限らない。
むしろ「表・表・表・表・裏・裏・裏・裏」のような偏りが出る方が自然なのだ。
これを見て「運がいい」と解釈するのか、「たまたま」だと見るのか。
意味ありげな連続が、意味のない偶然であることも多い。
「運の強化」に意味があると考える人の心理
人は、意味を見出したがる生き物だ。
偶然の連続を「法則」や「兆し」として捉えたくなる。
運が強い、運が悪い──そう言いたくなるのは、無力感からの逃避なのかもしれない。
だが科学の方法論は違う。
「観察者の主観を排し、再現可能性を重視する」
これが仮説の検証における鉄則であり、じゃんけんのような偶然のゲームに「意味」を持たせようとする試みは、科学ではない。
科学と運命:ニュートン力学と人間の死生観
ニュートンは、力学を通じて「同じ条件で同じ結果が得られる世界」のモデル化を成し遂げた。
それは決定論的な世界観の出発点だった。
しかし、人生はそこまで単純ではない。私たちが生きる現実は、複雑で確率論的な要素に満ちている。
医療の現場で運を考える意味
たとえば、喫煙が肺がんのリスクであることは疑いようがない。
だが現実には、喫煙者でも肺がんにならず、非喫煙者でも肺がんになる。
個人レベルでは「運」の作用を完全に排除できないのだ。
結論:聞くべきは“スキル”であって“運”ではない
仮に、じゃんけんトーナメントで2連覇した人物がいたとしよう。
そのとき、彼に勝利の秘訣を聞く意味があるかは、こう判断されるべきだ。
その勝利がスキルに基づくものなら:意味はある。学ぶべき点がある。
完全な偶然なら:意味はない。そこに再現性はない。
「勝利の確率を上げるスキル」こそ、注目すべき対象だ。
運の強化法を問うことは、幻想を学ぶようなものである。
長期的には、確率は収束する
運が良い・悪いというのは、短期的な評価にすぎない。
長期的には、確率論的に期待される平均に近づいていく。
確率が高いことが起こらない時もあるし、低確率なことが何度も起こることもある。
これが、確率の世界である。
運は「人間らしさ」の象徴
筆者『理屈コネ太郎』は、人間は運に翻弄される存在であるべきだと思っている。
なぜなら、運というどうにもならないものがなければ、人間の共感もドラマも生まれないからだ。
病に苦しむ人を見て、運命に涙することがある。
運という不確実性が、人間を人間たらしめる。
最後に:この世界は部分的に確率論で出来ている
我々が生きる現実社会は、決定論と確率論の狭間にある。
努力は意味がある。だが成功を約束はしない。
強運に見える人はいる。だがそれが再現される保証はない。
だからこそ、人生は面白い。
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