生理的観点から言えば、人体には修復機能の限界がある。老化は不可避であり、どれほど医療が発展しても老いを完全に克服することは不可能である。身体能力が衰え、自立生活が困難になる段階に達すると、生きること自体が苦痛になる場合がある。自力での移動や食事ができず、排泄も介助が必要となれば、生きる意欲を失う人も少なくない。こうした状況に至ると、自然な死のタイミングを逃したことが本人にとっての不幸となる。
社会的には、長生きの影響はさらに広範囲に及ぶ。高齢者が社会に貢献する年齢を過ぎ、介護を必要とする存在になると、社会は彼らを支える役割を担わなければならない。特に介護負担が家族に偏る場合、若い世代が自分たちの生活を犠牲にせざるを得ない状況が生まれる。また、社会全体のリソースが高齢者支援に集中し、若者や子どもへの投資が減ることで、社会の持続可能性そのものが危機に瀕する。
経済的視点では、長寿のリスクはさらに明確になる。高齢者が自らの資産で生活できなくなった場合、公的資金や家族の支援が欠かせない。膨れ上がる社会保障費用は、現役世代の税負担を増大させ、経済的安定を脅かす。家族が高齢者を支えるために仕事を辞めたり、収入が減少したりする場合、その影響はさらに深刻である。経済的自立を失った長寿は、個人の誇りや尊厳を損なうだけでなく、周囲への負担も増大させる。
心理的側面も見逃せない。高齢者は自立を失った初期には周囲に迷惑をかけているという意識を持つことが多いが、その環境に慣れるにつれ、また認知力が低下することで、周囲の人々の負担の上に成り立っている自分の生が当たり前になり、周囲への感謝を忘れることがある。一方で、介護する側も当初は負担を感じることへの罪悪感を抱く場合があるが、やがて高齢者の世話のために自分の生産性を犠牲にすることへの疑問を持ち始めることが多い。このような心理的な行き違いが、本人と周囲の人々との間に亀裂を生じさせることも珍しくない。相互理解の不足が続けば、家族や介護者との関係はさらに悪化し、心理的負荷は増大する。
もちろん、長生きが無条件に悪であると言うつもりはない。寿命を全うすることを願うのは自然な感情であり、高齢者に対する敬意や支援は社会の義務である。しかし、寿命の延長が無条件に善であるという価値観は、時に本人や周囲を追い詰める結果を招く。「死ぬのにちょうど良い時期」があるとすれば、それは個人が自分の人生を全うしたと感じ、周囲とのつながりを美しい形で終えられるタイミングである。
長生きのリスクを直視し、個人と社会の尊厳を守るためにどう生きるべきかを考えること。それが、これからの時代に求められる課題なのかな…と理屈コネ太郎はボンヤリ考えている。
今回は以上。
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