高好感度だけど低スキルの医師

この世にトンデモナイ医者や医療機関が存在するのは事実だし、その事実が世に知られている以上、良い医師・医療機関を求めて受診者が彷徨うのは仕方のない事だ。

しかし一方で、医者ではない一般の人に医師・医療機関の知識・スキル・倫理観などの「医師の質」や「医療の質」の評価は不可能である。

勿論、一般の人が医師・医療機関に対して何等かの評価を下しているの間違いない。

しかしその評価の対象は大抵の場合”好感度”である。医師・医療機関の質(ここでは知識とかスキルとか)を評価したものでは全くない。

ニセ医者が逮捕された事例を検討すると、受診者から医療スキルについて疑義が提出されて露見するケースは殆どないことからも、これは明白だ。

そこで、ここでは大胆に、医師という専門職を2つの尺度だけで考察してみる。1つめの尺度は誰でも自分の尺度で評価できる”好感度”だ。

好感度とは、「あの〇〇先生は話を良くきいてくれて、よく診てくれたわよォ~」みたいな尺度。

2つ目は、医師の医師としての知識・スキルの高低についての尺度。これは患者には絶対に評価できない尺度である。(当サイト内、医師のスキルについての頁を開く)

さて2つの尺度をいま導入した。すると、医師は次の4つに分類できることになる。

①高好感度かつ高スキルな医師当サイト内当該頁を開く
②高好感度だが低スキルな医師(本頁で扱う
③低好感度だが高スキルな医師当サイト内当該頁を開く
④低好感度かつ低スキルな医師当サイト内当該頁を開く

本頁では、②好感度だけど低スキルな医師について『理屈コネ太郎』が理屈をこねてみたい。

要するに、患者の評判は良いが実は医師としての能力は低い医師の事。

誤解を恐れずに言えば、医師が高好感度な医師を演じる事はそれほど難しい事ではない。一般に流布されている”良い医師”のイメージを体現すればよいのだ。

要するに、フリをするっていうか、プロの役者には失礼だが”良い医者” の芝居をすれば良いのだ。

以下、具体的に見てみよう。

まず髪型や白衣に清潔感があり、佇まいにある種の風格があり、そして患者に対して優しい。

そして患者の話に傾聴する。

次に意味あり気に聴診器を患者の胸にあてて聴診したり、お腹を触って触診する。これを身体所見を取るというが、丁寧に身体所見をとるフリをする。

そして患者から見て必要最低限と思われる検査やお薬の処方だけをする。

できればチョッピリ厳しい事も言ってくれると有難味が増す。

言葉使いは丁寧ではあるが、どこか荘厳さを感じさせるものが望ましい。

これらの行為をするだけなら、医学知識や修練を積んだ手技は全く必要ない。ちょっと芝居が出来れば事足りる。

世間的な”良い医師”のイメージを体現するには、医学知識やスキル、倫理観は不要なのだ。ぜんぶ “ふり” でオッケーなのだ。ここでの “ふり” とは、してる”ふり” の “ふり”だ。

勿論、問診と打診、聴診、触診、視診(これを身体所見などと読んだりする既述した通り)だけで成立する医療も存在する。ここでは、こうした聴診器だけの診察を徒手空拳診察と呼ぶ事にする。

きちんと修練を積んだ医師ならば、例えば昭和の循環器内科のベテラン医師ならば、患者が認知症や難聴を発症していなければ、徒手空拳診察だけで相当なレベルの診断が下せると思う。だが診断できるだけで、治療するにはどうしたって薬剤が必要だ。

蛇足だが、認知症や難聴にはこうして徒手空拳医療は現実的には不可能に近い。認知症や難聴のご家族を持つ読者なら、日常会話すら成立できない経験をお持ちの筈だ。ご理解戴けると思う。

そして、現在の日本の日常的医療の診断に求められているレベルは、前述の昭和熟練医師の徒手空拳診察を遥かに超えるレベルであることを知っておいて欲しい。

その日常的な医療のレベルとは、血液検査、CTやMRIなどの画像検査、内視鏡検査、心臓カテーテル、心臓超音波エコーといった、アクセス可能な高度医療機器による客観的情報収集を前提とした診断と、確実な手技によって施行される統計的分析に堪えうる治療内容によって到達できる。

より正確に言えば、アクセス可能な高度テクノロジーによる情報収集に基づく診断と、統計的に検証可能な治療技術の2点で到達できる最高度の診療水準が今の日本で日常的に求められているのである。

問診と理学所見による徒手空拳診察は、随分以前から本邦ではアクセス可能な最高度の技術と方法とは考えられていないのだ。

よって、今日の日本では、問診と理学所見だけの徒手空拳診察が存在意義を発揮できるのは、何等かの理由で上記の医療機器にアクセスできない環境下だけである。

具体的には災害地や個人開業医などが考えられる。災害地や個人開業医では、医師が持つ問診・打診・聴診・視診・触診による診断能力に大きく依存することは間違いない。

繰り返すが、こうしたプリミティブかつエッセンシャルなスキルが本当に意義を持つのは、それしか方法がない時だけだ。

世間には”薬漬け医療”や”検査漬け医療”という言葉が流布している。医師が”医は算術とばかり”に収益のためだけに不要な薬を処方し、検査を実行するのだという共通認識がなんとなく存在している。

これはあながち間違っていない。私自身、そういうクリニックに勤務して頭痛がするくらい悩んだ事がある。(詳細はトンデモクリニック勤務体験貴①参照)

そして患者が十分に自分の病状を説明すれば、医師は高額な検査をしなくても病気を診断し、安価な薬で治療できるという誤解もある。

だから患者はとにかく喋りたがる人が多い。こうした患者の語りは専門の研究対象になっているくらいである。

まだ私が若いころ、自宅のそばに自分のクリニックを開設した事がある。このクリニックで試行したのが、患者の発話を一切さえぎらずに話したいだけ話してもらうという事。

患者の発話が途切れるまで辛抱強く待ち、途切れた時に必要な質問をする。そして長い話を聞いた最後に、必要な検査や薬を勧めるという診療スタイルだ。

患者の許可を取るのが現実的ではなかったので録音はしなかったが、可能な限り患者の話を筆記して記録した。その結果わかった事は4点ある。

1点目は患者の発話のうち8~9割が患者の思い込みによる原因分析で、医学的診断に不要な内容であるということ。

2点目は医師の質問にきちんと答える患者は稀で、質問によって触発された自分の想いや記憶、時には主張を縷々話し始める人が8割だといういこと。

3点目は、クリニックの評判が上がった事。Googleなどのネット上の口コミに「話をよくきいてくれる良い先生」との記載が散見されるようになり、評価の☆の数も増えた。

4点目は、待合室に何人ほかの患者が待っていようと診察室の患者は自分が話したいだけ話すということ。他の患者が待っているから自分の診察時間を必要最低限にしようと考える人は殆どいなかった。

医療はサービス業であるが、医療が扱うサービスは患者を気持ち好くする事ではない。医療がサービス業として取り扱うサービスは、”医療行為”そのものである。

医療行為とは、医学とそれを中心とした周辺諸学に裏打ちされた内容でなくてはならない。

医師といえど、医師個人の勝手な発想や理屈で患者を診療してはいけないのである。

医師はあくまで、医学とその周辺諸学の知見に基づいて患者を診療しなくてはならない。

蛇足だが周辺諸学には、医師法や医療法など法律や臨床心理学などの心理学のうち医療に関連する分野も含まれる。

話を元に戻すと、医師だけが医学とその周辺諸学の知見について知っている(いわゆる”情報の非対称性”)。

だから、高好感度の医師が正しく医療を実行しているかどうか患者には判断できないのが普通である。そこにつけこむ医師がいないと誰が断言できようか?

つまり、自身の医師としての低い能力を隠すために、患者からの好感度を上げようとする医師はいない、と一体誰が断言できるだろうか?

先ほど記述したように、修練を積んだ医師なら、問診と理学所見だけでかなりのレベルの診断が出来る。

しかし、患者の目の前で丁寧に話を聞き、意味ありげに打診、聴診、触診、視診をする医師が、単に”診察しているふりをしているだけ”の修練を積んでいない医師なのかもしれない。そうでないと言える患者がいるだろうか?

ここに良い医者の罠の類型のひとつがある。勿論、好感度と高スキルを併せ持つ医師も大勢いる。しかし『理屈コネ太郎』が指摘したいのは、好感度だが無能な医師と、好感度かつ有能な医師の判別が、受診者にはつかないという事なのだ。

今回は以上。

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