Sex And The City キャリー・ブラッドショーという人物

ニューヨーク(以下、基本的にNY)マンハッタンを主な舞台に4人の(後に3人に減ってしまうけど)女性たちの恋愛や友情に纏わる日常的な様々な事柄を題材とする連続ドラマ Sex And The City(と And Just Like That…)。

面白いのは、この4人の主人公達のうち誰一人としてNY出身者がいないこと。この事は、SATCの全編を通して、主人公達の場違いで過剰なファッションに地方出身者独特の見栄と頑張りと周囲への威嚇?として描写されている。(著者注:キャリーはコネチカット州出身らしい)

しかし同時に大都市NYの尖がった躍動は、彼女達に代表されるNon Native New Yorker 達の見栄と頑張りとマウント取りによって作られているのも事実。

SATCが2004年に終了してから3年後の2007年に始まったGossip GirlではNative Rich New Yorker高校生達の恋愛模様が描かれているが、彼らと彼らを囲む人達のファッションや行動様式にSATCの4人組のような力みやトンガリを感じられないのは私だけだろうか。

ああ、そうそう。Gossip Girl 第1話でのセリーナの初登場シーンは、彼女が電車に乗って窓を外をボンヤリと眺めるような場面だった。

Gossip Girlの登場人物達は日常生活ではバスや電車といった公共交通機関に乗る一方で、高校生のクセにパパのリムジンに乗ってどんちゃん騒ぎをすうような人達。

一方、SATCでの4人組は殆どバスや電車にのらず専らタクシーだったように思う。キャリーが電車に乗っている場面なんてなかったと思う。

ここいら辺も、Native Rich New Yorker とOrdinary Non Native New Yorker との思考と行動の様式の違いかも知れない。ま、どちらもドラマだけど。

SATCの主人公であるキャリー・ブラッドショーはNon Native New Yorker であるコンプレックスをバネに(ドラマ中ではほとんど描かれていない猛烈な努力のすえ)、コラムニストとしての地位をNYで築いている、と『理屈コネ太郎』には思える。

SATCの主人公達はNon Native New Yorkerだからこそ、偶然にNYに生まれ落ちた凡庸なNative New Yorker(NYという一地方に偶然生まれ育った”NYしか知らない人達”)以上にNYにNY的な出来事を展開させて、NYをよりNYらしく進化させていく。

Gossip Girlの連中と比較するとSATCの4人組の方が圧倒的にハングリーで攻撃的で創造的。

もっともGGの若造どもは生活に困らない人々だが、SATCの4人組は生活のために仕事しているからってのもあるだろう。

とにかく、先進国の殆どの大都市は、Gossip Girlの登場人物達のようにその大都市にたまたま生まれ落ちた人々によってではなく、SATCの4人組のように他の地域から流入してきた人々によって都市の活気を増大させているのは良く知られた事実。

キャリーという人物は、ニューヨークを魅力的にする流入者達の1人。さながら、ニューヨークというリングでバトルロワイヤル戦を闘う戦士の様である。

そしてキャリーは、おそらく少なくとも大学レベルの教育を修了している はずで、芸術や宗教や政治にも極めて造詣が深い。社会の規範の矛盾や不条理を日常生活のなかに発見し、多様に解釈し表現することに巧みである。

(著者注:原作者Candace Bushnellによるとキャリーは1980年代にBrown大学に通っていて、NYのThe New Schoolで夏季授業を受けていたらしい) 

よく、キャリーを始め登場人物が政治に興味がないと思っているSATCファンと遭遇するが、それは誤解だと『理屈コネ太郎』は思っている。

単にSATCは政治については描かないスタンスのドラマなだけであり、登場キャラクターが政治に無関心というわけでは全然ない。

あの9.11同時多発テロについても何も語られていないのだ。SATCが焦点をあてるのは、キャリーとその仲間たちの恋愛事情と女性の生き方なのだ。

因みにシャーロットは大学生活について言及された回があるし、ミランダはハーバードのロースクール出なので大学院修了だ。サマンサの教育歴について言及された回はないと思うが、英国訛なのに歴代米国大統領を名前を言えたりするのは長い教育歴を物語っていると思う。

ところで、サマンサは映画”追憶”を見ていないらしい。あの映画はアメリカ現代史の一部を反映しているし、また商業的にも成功だったはずなので多くの人があの映画を見ていたはずだが、サマンサは全く興味を抱いていないのだ。サマンサの個性が際立っている。もしかして、サマンサって、イギリス人って設定だったかなあ?

話をキャリーに戻そう。

キャリーは、いわゆるロマンチックラブイデオロギーを無自覚に信じている女性である(詳細は”ココ”をクリック)。

自分が最も愛する異性に一番に愛されたい。その相手と結婚し、セックスはその相手とだけ許される。キャリーはそう思い込んでいる。

自分が最も愛する異性に一番に愛されたい。この願いをかなえるために、キャリーは恐らく物心ついてからずっと男性遍歴を重ねてきた。

それはクラシックな文化も分厚いが、軽佻浮薄な文化もまた分厚い米国にあってイバラの道程だったと想像する。

遊びと割り切っている場合以外で、好きでもない異性や妻帯者とセックスしたあとは、彼女は虚無感に苛まれる。それは満身創痍の旅だったはず。この旅がキャリーを逞しく聡明に鍛え上げたのだろう。

キャリー・ブラッドショーは、自分で生活し、考え、判断し、全てを引き受けようとする1人の人間としてSATCの1st season Episode1(S1E1)に登場した。

S4E11で、ミランダが妊娠してしまった事を機に、キャリーは過去に自分を妊娠させた(キャリーは自分で中絶を選んだ)相手に気まぐれに遭いに行くが、その男は確かにイケメンだがキャリーと出会った時と同じ仕事をしていてあまり成長がみられず、そしてはセックス(One Night Standだけど)相手のキャリーのことを全く覚えていなかった。

自分の身の中に宿した命の父親の不甲斐なさと、その男にとっての自分の存在の軽さに直面するキャリー。

傷だらけのキャリー。

だがキャリーはそれすらも受け入れてまた立ち上がる。自身のこれまでの歩みとこれからの成長を信じて。

6つのシーズンと1本の映画を通して、やっとキャリーは長かった傷だらけの旅を終わらせる事ができた。

本来なら、SATCはそこで終わって然るべきだったかもしれないが、その後はご存知のように1本の映画が作られ、しばらく時間が空いたが最近になってドラマシリーズのAnd Just Like That…が作られた。

2本目の映画の方はともかく、And Just Like That…はなかなか興味深い作品だった。

第1話でビッグを突然失った後のキャリーは、SATC第1話で登場したキャリーと全く変わらない精神性の持ち主だった。

ビッグの葬式を全て自分の流儀で取り仕切りたかったのに、キャリーの希望に沿わない贈り物をしてきたのがサマンサだと知り、その贈り物を受け入れるキャリー。

強くて、茶目っ気があって、人の心の傷(例えばバカな男に傷つけられた時の女心)を推察できて、お洒落(特にヒールの高い靴)に執着していて、繊細だけどへこたれない人物。そして自身の加齢を受容する聡明な人物。

かつて付き合っていた年上の政治家の垂れ下がったお尻をみて、急に熱が冷めたときのキャリーは彼の加齢現象を受け入れられなかったというのに。

And Just Like That…では、携帯電話を使っているキャリー。かつて住んでいたアパートの部屋には昔の黒電話を持ち続けているキャリー。

And Just Like That…の最終回で、パリはセーヌ川にかかる橋の上からビッグの遺灰を撒くキャリーが着ているドレスとエッフェル塔をかたどったバッグが如何にも地方から出て来たNon Native New Yorkerがパリで頑張っちゃった感じを表現していて秀逸な演出である。

あの時間のあの場所を知っている人にとってはこのシーンは完璧にコメディー。キャリー、やってくれたって感じである。もちろんそれで良いのだ。SATCとAJLTはロマンティックコメディーなのだから。

あ、因みに『理屈コネ太郎』はSJPとキャリーのキャラクターは完全にわけて考えてます。

今回は以上。

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