受診者が医療者に向けて訴える「患者の立場になって欲しい」という想いが不毛である理由を述べたい。
保健所からの指導なのか、最近はどこの医療機関にも受診者からの声を拾う事を目的とした投書箱がある。
『理屈コネ太郎』が勤める医療機関でも投書箱が設置されていて、投書が職員用の掲示板に貼りだされて供覧されている。
投書には建設的な意見も見られる一方、一見正論めいていはいるが考察が足りていない意見も多い。
その代表格が、標題の「患者の立場になれ」である。多くの受診者は誤解しているが、医療者も病気になるし、当然医療機関を受診もする。
『理屈コネ太郎』自身も含めて、周囲の医師・看護師で患者の立場に立った事がない人など殆どいない。
普通の人と同じ程度の割合で、死の淵から生還した人だっている。医療者も人間だから。
「患者の立場になれ」と訴える受診者は、医療者もまた人間であり、病気に罹り、医療機関を受診して患者という立場に立つということに想像が及んでいない。
医療者だからといって他の医療機関で特別扱いされる事はない。一般の受診者と同様の扱いである。
「患者の立場になれ」と主張する人達は、医療者という人々の生活にまで思慮が及んでいないのだ。それこそ、「相手の立場になっていない」のである。
蛇足であるが、『理屈コネ太郎』は現在3つの診療科に定期的に通っている。その全てで、一般の受診者と全く同じ扱いを受ける。医師だからといって特別扱される事は一切ない。
そのような患者の立場を日常的に体験している医療者には「患者の立場になれ」という言葉はハートには刺さらない。
医療者に患者体験がないという前提で「患者の立場に立て」いう想像力のなさに幻滅してしまうだけだ。
そして、このように患者の立場になることもある医療者が、医療サービスを提供する側に回るとき、真っ先に考えるのが「患者のために最優先すべき事柄な何か」である。
少なくとも『理屈コネ太郎』が勤務する医療機関では、①健康保険の枠組み範囲内で、②診断・治療を出来るだけ正確かつスピーディーに、③出来るだけ多くの受診者に提供する事、との共通認識が殆どの職員に共有されている。
簡単にいうと、「保険が効く範囲で、よい医療を多くの受診者に受けてもらう」こと、それが患者の立場に立つ経験を持つ医療者が考える患者の為に自分達が第一にすべき事なのだ。最優先事項である。
ところで、人を愉快にさせる、快適に過ごしてもらう事に膨大なコストが必要であることを世間にあまり認識されていない。
快適なホテルに滞在するのに、なぜあれ程の金額を客が支払うのか。それは、快適さや客を待たせないというサービスには高いコストがかかるからだ。
翻って急性期医療機関は、ホテルのように快適を追及すべき場所なのかといえば、答えはNoだ。病気を治すために仕方なく来る場所なのだ。いわゆる快適さや癒しを提供する場所ではない。(療養型病院は少し話しが違うかもしれない)
話しは変わるが、数年前に『理屈コネ太郎』は都内の某有名ブランド病院に入院した事がある。
自宅で夜間の急激な腹痛に襲われ、勤務する医療機関まで行こうかを考えたが、移動時間中に悪化するリスクを考慮して、自宅から一番近い病院を受診する事にした。
事前に電話で診察してくれる事を確認し、実際に病院に到着した頃には腹痛が増悪し、立っていられない程だった。
『理屈コネ太郎』のアタマの中では勿論、自分の身体の中で起きている現象を分析している。
痛みの場所からして、肝胆膵か胃か。酒は体質的に一滴も飲まないし、これまでの健診で胆石は指摘されていない。3ヶ月前に撮ったCTでは腹腔に穿破しそうな腫瘍も勿論、CTで観察可能な腫瘍もなかった。
胃潰瘍の既往はあるがもう随分まえにピロリ菌の除菌は済ませてあるし、制酸剤も内服している。
半年前に胃カメラ検査を受けて特に問題なしだった。大動脈乖離では痛さのタイプと場所が違うし、尿路結石とも痛さのタイプと場所が違う。
虫垂炎の初期は心窩部が痛くなるが、右下腹部の圧痛はまったくない。そして、発熱もしていない。
頭の中で診断学をコネてみても埒があかないので、こえれは検査が必要であると判断したのだ。
とまあ、そんな感じでブランド病院の救急外来に到着したのが午前1時。そこには、救急医学の若い医師達数人がいて、私に問診してくる。
彼らには私が医師である旨は告げてあるが、私の診断や意見には耳を貸そうとしない。
ベッドの上で痛くてうずくまっている私に、彼らは矢次早に質問を繰り出す。一般の受診者なら、そんなことどうでもいいからとにかくこの痛みをなんとかしてくれと思うだろう。医者を無慈悲な奴らだと思うかもしれない。
しかし幸い私には彼らの意図がよくわかる。まず彼らは私の意見よりも客観的な事象を診断の土台にしたいのだ。私の意見で彼らの思考にバイアスがかかるのを回避するためだ。
そしてある程度の診断がつく前に痛みどめを用いて病態をマスクしたり、私の意識レベルが下がって私から情報を聴取できなくなるのを避けたいのだ。
迅速な診断と治療開始には、受診者からの事実ベースの言語情報が必須なのだ。
彼らのアタマの中には、取りあえず次の一手は何か、入院が必要か、緊急手術が必要か、もしそうなら消化器外科か、心臓血管外科か、と色々な蓋然性が飛び交っていたはずだ。
今後の必要な検査についての同意書を書いたり、採血、CTスキャンが済んで、どうやら消化器の病気らしいとの診断に基づき輸液しつつ入院で経過観察しましょうということで病室に入ったのが午前2:30。
病院到着から1時間半かかった事になるが、十分に迅速な対応だと私は思った。
その病院には部屋は個室しかなく、部屋に入った私は、腹痛時に注射される痛みどめの影響で混濁する意識のなか、差額ベッド代の金額をそばにいる看護師に尋ねた。
回答は2万5千円だった。覚悟はしていたが驚いた。あとでこの部屋が一番安い部屋だと知った時には更に驚いた。
この金額を聞いたとき、私は医師や看護師の言う事を良くきいて、この病気を早く治して一刻でも早く退院しようと決意した。
入院生活はとにかく不自由で退屈だった。時間が余って余ってどうしようもない。特に夜、病室の窓の外が夜のオフィス外で、通りには誰も歩いていない黒ひかりする歩道には正直気分が滅入った。このままでは鬱になる‥と思ったのを今でも覚えている。
輸液の交換や注射、投薬、その他、何かあるたびに本人確認として名前と生年月日を尋ねられる。何もそこまでと一瞬私も思ったが、患者取り違えを防ぐための彼ら医療職の職務なのだと想いなおし、付き合う事にした。
入院中は『理屈コネ太郎』が医師である事は全く一顧だにされなかった。全て、他の一般の患者と同様の扱いだった。当たり前である。
とにかく日常の生活にはやく戻りたい。そのためにははやく病気を治すことだ。私のアタマの中にはその想いだけがあった。
病院、特に病気を検査・治療する事を主目的とする急性期病院は、患者にとって居心地の良い場所である必要はないと、『理屈コネ太郎』が確信した経験である。
医療機関は、病気を診断・治療して受診者が日常生活を取り戻す機会を得る場所だ。
話しがだいぶ脱線したが、日本の健康保険制度は、病気を診断・治療する事に関しては非常に受診者に優しくできている。
しかし、受診者の快適性とか利便性についての配慮はまだまだ端緒にすらついていない。
一例を挙げよう。健康保険証は最近になって運転免許証と同じサイズになって各個人が携帯できるようになったが、少し前まではB6サイズくらいの厚紙を三つ折りした物で、しかも1世帯に1枚しか配られなかった。
こうしてようやくカード化した健康保険証であるが、いまだに保険者番号や氏名を電磁記録化していない。そのために、保険証確認の際にいちいち医療機関が差の人間が情報確認する事になる。
健康保険証に、運転免許証にそうしたようにICチップを埋め込んで保険者番号や氏名のみならず、内服中の薬などの情報も電子化すれば、事務処理や診察が格段に高精度かつ高速になる。しかしどういうわけか保険証のICチップ化はまだまだ議論の途中なのだ。
更に言えば、受診者が窓口で負担する金額は医療費の3割くらいだ。残りの7割は健康保険が病院に支払ってくれるた、この保険請求を医療機関側が行っている事を皆さんはご存知だろうか。(この健康保険の仕組みの複雑怪奇さについては当サイト内『医者ななぜいつもズレてる』を参照されたい)
普通、自動車保険も、生命保険も、損害保険も、保険は給付を受ける側が請求して初めて給付プロセスが始まるが、健康保険に関しては給付を受ける受診者が請求するのではなく、医療機関側が請求することになっている。
自営業者やフリーランスの人ならご理解いただけるだとうが、所得税などは支払う人が金額を計算して申告までして支払う程に過酷であることを考えると、健康保険がいかに受診者に優しく制度設計されているかが分かる。
少し、話しが長くなったのでここらへんで纏めようと思う。
まず、第1に医療者の殆どは日常的に患者の立場で医療機関を受診している。
第2に医療機関の最大の責務は高精度の診療をスピーディーに多数の患者に提供すること。
そして第3に現在の健康保険制度の枠組みのなかに患者の快適性や利便性を担保する仕組みが存在しない事実。
こうした状況では、患者が医療者に向けて「患者の立場に立つ」ように求めても、医療者の胸には全く刺さらない。
それどころか、『理屈コネ太郎』などは、「では、あなたは医療者の立場を想像してみた事がありますか」と問いたくなる。
社会に必要なのは、相手の立場を思いやる想像力だ。互いが互いを思いやる想像力が、情緒的にも情報的にも、そして物質的にも豊かなな社会の礎なのだと思う。
他者の立場を思いやる事をしないで、自分の立場は考慮してくれというのは、ある種の甘え、あるいは被害者意識なのではあるまいか。それは患者・医者間だけでなく、患者・患者間でも同様だ。
『理屈コネ太郎』が知る範囲において、本邦の医療従事者は、関連法律、健康保険制度、療養担当規則、医学的妥当性などの数多い制約条件のなかで頑張って働いている人ばかりだ。
「これ以上は無理」って環境で何とか責任感と義務感とボランティア精神で踏ん張っている人達だ。
そういう人たちに、「患者の立場になれ」は、全く医療者の胸には刺さらない。
この事は是非知っておいて戴きたい。
今回は以上。
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