大学には行く価値があるか?

答えを先に書くと、場合によっては大学には行く価値がない。本頁ではその理由について述べてみたい。あくまで『理屈コネ太郎』の管見内での偏見と独断に満ちた私見である事をご銘記のうえ読み進めて頂きたい。

初めに明確にさせておくが、このページでいう大学は正規の大学の事であり、予備校とか塾とか専門学校は含まない。YouTubeの〇〇大学ももちろん含まない。一方、正規の大学であれば、夜間大学や通信大学も含む。

論を進める前に、まず大学に進学する動機を整理したい。

『理屈コネ太郎』の経験から言うと、大学に行く理由は次に示す①~⑤の5つ。

そのうち大学を卒業する意味があるのは、①と②の場合だけだと思う。③の場合は微妙だ。場合によってはコスパが悪いかも知れない。④は既に言語化された知識なら大学は不要だ、⑤はちょっと理解できないので本頁では触れないでいようと思う。

で、5つの理由とは。

①食える資格取得のため、
②アカデミックなプロ研究者になるため、
③能力を出身学校と学部名で簡単に説明するため、
④なんとなく勉強したいので
⑤世間体のため。

①~④について少し説明してみたい。

①は生活するうえで強力な武器になる資格が大学に行かなくては取得できない場合。

医師になるには医学部に、獣医師になるには獣医学部に入学して卒業して、そしてやっと国家試験受験資格を得られる。

他の食える資格取得のためには大学に行く以外の選択肢がないケースも多いと思う。そうしたケースでは大学に行くしかない。

それしか選択肢がないなら、やるしかない。

②は、アカデミックな意味でプロの研究者を目指している場合。大学の教員になる、企業の研究部門に勤める、シンクタンクに勤めるなど、勤め先は色々だ。

ところで、プロの研究者を名乗るためには、自称では通用しない。同じ領域または隣接領域の研究者達から、”この人も確かにこの領域の研究者です” と認知されなければならない。

テレビなどで時々みかける〇〇学者のなかには、博士号も持たず、研究機関に所属していない人がいるが、こういう人は〇〇学者を名乗っているタレントであり、本物の学者ではない事が多いので要注意。

隣接領域の本物の研究者からは学者として認知されていないはず。

アカデミックなプロ研究者は、他のアカデミックプロ研究者に認知されてプロ研究者を名乗れるのだ。ここはとても大切な点ので覚えておいて欲しい。

ただし、例外もある。ものすごくニッチな領域の小さな研究者ソサエティーのなかで、尖った学説や少数意見的な研究結果を主張したりする研究者は、他の研究者から研究者として認めて貰えない場合がある。

こういう尖った研究者に対する評価は、歴史の判断を待つしかない。結構、少数派の尖った主張が正しい事が後から判明するなんてこともなくはない。

ハナシをプロの研究者に戻そう。

プロの研究者、つまり学者になるには、博士取得者でないと現実的に困難である。プロ研究者を目指すなら大学進学は最初の一歩に過ぎないのだ。

大学4年、修士に2年、博士課程に3年と、計9年もかかる。しかしながら、博士号を取得をしても就職先が見つからない事は普通であることは覚悟した方がいい。

大学とは本来は研究者養成機関なので、研究者を目指すなら、大学進学が実質一択である。

ここで少し博士号について説明したい。

博士号は国家資格ではなく、各大学がその責任において発行する学位と呼ばれるものの一つである。普通、学位は学士号、修士号、博士号と三段階があり、博士号を大学から出してもらうためには、その大学の教授達が内容の確かさを認める博士論文を書かなくてはならない。

博士論文とは独自に発見した事実を論文の形式に記述されたものである。この独自に発見した事実というところがキモで、自分自身で他の誰も知らない事実を発見しなくてはならない。

そして博士論文を書いたあと、大学の複数の教授達からその内容の確かさを認めて貰わなくてはならない。認めてもらってはじめて大学から博士号を授与される。

つまり、博士号を持つ人は、博士論文が複数の専門家達から研究能力を評価された人であり、評価する専門家達ですらその論文を読むまで知らなかった新しい知見を学術の作法に則って言語化した人なので、博士論文が通った人、つまり博士号を持っている人は、その時点で研究者あるいは〇〇学者と認定されていることになるのだ。

と、ここまで読んでハラスメントが発生しやすいのでは?と感じたあなたは鋭い。そう、大学院教育、特に博士課程は指導教員と一対一の濃いディスカッションが続くので、ハラスメント的な事が起きやすい状況である。特に人文社会系では、結構ハラスメントは起きていると思う。

既述したように、博士号は国家資格ではない。各大学がその大学の責任において発行する学位である。しかし、一人前のプロの研究者あるいはプロの〇〇学者になるためにはほぼ絶対に必要な学位なのだ。

ただし、ごく稀に博士号はおろか高等教育を受けた事がない人物が第1級の研究業績をあげる事例もあるが、こうしたことは例外中の例外であり、狙ってできる芸当ではないので、絶対に目指してはいけない進路だ。

もうひとつ知っておいて欲しいのは、研究とは知の領土を広げる行為であるということ。研究者とは知の最先端を推し進める者。本当ならとてもシンドイ仕事なのだ。

学問を仕事にすることについては、大社会学者、マックス・ウェーバーが”職業としての学問”という本を出しているので、時間があれば読んでみると良いいかも。

③は学習能力の高さを出身大学名で簡単に説明できる事に重大な意味があると思っている場合。履歴書が大切って考え方だ。あるいは世間は学閥・学歴社会であるとの認識を持っている場合。

しかし、こうした人もなかなか悩ましい現代を生きていると思う。

問題は、一流大学を出て”能力高いひと”との評価を獲得するために投入する費用や労力や時間が、長い人生のスパンで十分に見合う投資なのかどうかの判断が、現代では非常に困難であるし、今後ますます困難になると思われることだ。

簡単に言うと、大学に行く事はコスパやタイパ的にいかがなものか?と疑義が提出される時代になったのだ。

実際に、大学を卒業しなくてもお金持ちになったり、会社を大きくして雇用創出などの業績あげたり、高い能力を証明した人は大勢いる。

だったら、能力の高さを証明するためにわざわざ大学に行くより、そのための費用や労力や時間を、現実世界でのお金儲けや社会貢献などの能力証明に振り向けた方がコスパやタイパが良くね?ってハナシだ。。

それに、「あいつ〇〇大卒のわりにアタマ良くないよね」と事あるごとに意地悪者の揶揄の対象にされるのもキビシイ。

また、既に言語化された知識に限って言えば、学習の手法(『学び方の提案』の頁を開く)さえ誤らなければ大学に行かなくても独学で吸収できる時代に我々は生きている。

国家資格なら確実だが、国家資格以外の資格でも十分に能力の証明にはなる場合もある。具体的には簿記検定や英検やTOEICやTOEFLは能力証明になる。

『理屈コネ太郎』の現時点での答えは、③の目的、すなわち能力証明目的で大学に行くのはコスパが悪い…である。

既述したように、本来大学は研究者養成機関であった。百歩譲っても大学は思索がちな高等遊民の溜り場だ。更にもう百歩譲っても、大学は社会不適格な変人達の収容所だ。そう考えると、そもそも実社会での能力証明目的で大学に進学するのは原理的に悪手なのかも知れない。

ここで私の昔からの疑問を紹介したい。

そもそも大学へは、高校卒業直後に入学するものなのか?

これである。

話しを戻すと、上記の①や②は、大学に行くことが必須なので “大学に入学して卒業する” 一択だ。しかもできるだけ早急に。だから、入学資格を得た直後、すなわち高校卒業直後が望ましい。つまり、浪人せずに…ってこと。

しかし③の人は、コスパ的に大学に行くことそのものが賭けである事を知っておいて欲しい。

だけどもし、あなたが既にある程度の社会人経験を重ねた人で、その経験に照らしてコスパ的に見合うと考えたなら、④の理由で大学進学も悪くないと思う。

学問の価値は、学び手の能力によって大きく変動するものだ。高校生が源氏物語や漢詩を読んだとしても、それは試験勉強のための方便でしかない。

しかし大人は、自身のアイデンティティー再確認や、世界に打って出るための現在の立ち位置の確認として源氏物語や漢詩を勉強することは絶対に役にたつ。

このような勉強こそ、①のような資格目当ての功利主義的勉強なんかより人生を豊かにしてくれると思う。

『理屈コネ太郎』の答えはこうだ。

①の人たちは仕方ない。大学に行くしかない。

②の人達は博士取得後にも仕事がないことを覚悟していて、その学問が好きで好きで仕方ないならいく意味がある。

③は、コスパ的に賭けだ。ネット上のインフラが整った現在は、おそらくコスパ的に見合わない賭けだ。大学で学ぶ種類の知識は、書籍とネット情報でもっと効率的に短期間で学べると思う。

④目的の人は、費用の低廉な大学なら意味があるかもしれない。でも、コスパ的にやはり書籍&ネット情報の方が優位かなあ。

今回は以上。

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