患者に寄り添う医師の診療能力が高くない蓋然性について、理屈コネ太郎の管見内の独断と偏見による私見を述べる。
医師として必要とされる能力は多岐にわたるが、特に重要なのは診療能力と患者への寄り添い方である。この二つは密接に関連しながらも、それぞれ異なる性質を持っている。診療能力は医学的知識や技術の習得を通じて、体系的かつ計画的に学習する必要がある。一方、患者に寄りそう能力は、感性しだいだったり、経験や人間関係の積み重ねを通じて磨かれる性質が強い。
診療能力は高度に専門的であるため、患者自身がその質を正確に評価することは難しい。例えば、医師が下した診断が適切かどうか、また選択した治療法が患者にとって最善かどうかを、一般の患者が判断するのは容易ではない。
多くの場合、患者は医師の診療の背景にある技術的な根拠を十分に理解できない。一方で、医師が患者に寄り添う姿勢は、患者が直感的に感じ取ることができる。医師の表情や声のトーン、共感的な言葉遣いなどは、患者に安心感や信頼感を与える直接的な要因となる。これは、診療内容以上に患者に印象を与えることが多い。
患者から『良い先生』と評判がたつ医師はたいてい診療能力より寄り添う能力が評価されている。
こうした背景から、医師がどちらの能力を優先して向上させるべきかは議論の余地がある。診療能力が不十分であれば、最適な医療を提供できない可能性があるが、それでも患者は医師の寄り添う姿勢をより高く評価することが多い。
医師が自分の苦しみに共感し、不安を取り除こうと努める姿勢は、患者にとってかけがえのない安心感を生む。このため、医師が診療能力の向上に力を注ぐよりも、患者に寄り添う能力を磨くことが、多くの患者から支持を得る近道になるかもしれない。医療が単なる科学技術ではなく、人と人との関係性の中で成立する行為であることを考えれば、この指摘は決して的外れではない。
しかし、ここに一つの懸念がある。診療能力向上はガッツリゴリゴリと努力する必要があるため、その向上に向けた努力は医師にとって大きな負担となる。一方で、患者に寄り添う素振りは比較的容易に演出できる場合もある。医師がその手軽さに安住し、診療能力向上の努力を怠るようになるリスクがある点は見過ごせない。仮にそのような医師が増えた場合、患者を真に救う力を持たない「寄り添うだけの医師」が医療の現場に蔓延する可能性がある。これは、医師としての本質的な責務を見失わせる要因となりかねない。
さらに、診療能力向上の努力を怠る背景には、患者自身の評価基準にも問題があるかもしれない。寄り添いの姿勢を重視するあまり、診療の技術的な正確性や科学的な裏付けが軽視される場合、医療全体の質が低下する懸念がある。患者は医師に「寄り添い」を求めるが、同時に正しい治療が行われることを保証する責任も医師にはある。患者側の期待と医師側の責務のバランスを取ることが、医療の質を保つ鍵となる。
医療の本質は、科学的な診療と人間的な寄り添いの両立にある。どちらか一方に偏ることなく、両方をバランスよく追求する姿勢こそが、真に信頼される医師を生む鍵となるだろう。
療能力向上を怠らず、寄り添いの姿勢をも大切にする理想の医師が増えるといいな…と、私、理屈コネ太郎は切に願っている。
今回は以上。