日本人が英語を喋れない理由

日本人は英語が苦手だと言われて久しい。実際に英語に苦手意識を持つ人は多いような気もする。その理由について『理屈コネ太郎』の若干の考えを述べたい。どなたかの参考になれば幸甚である。

趣旨を先にまとめると、日本人が英語を操れない理由は2点に集約できる。①英語を操る必要性が低いこと、②英語が公教育において採点の道具に堕してしまった事。

以下、順を追って説明する。

理由その①の「必要性」について。
日本国内では、そもそも英語を操る必要性が極端に低い。

日本人は日本国内では日本語だけで生活が完結するから他の言語を使う必要がないのだ。

日本は世界有数(3位くらい?)の経済国であり、人口も1億人超。識字率も教育水準も高い。そのお蔭というべきか、とにかく日本国内で必要かつ海外発信の情報は、ほぼほぼ日本語に翻訳されている。日本語化されていると言っていい。

世界の情報のどれくらいが日本語化されているかというと、ポップカルチャー以外のあらゆる領域で大学学部レベルまでの知識は日本語化されている…というのが『理屈コネ太郎』の肌感覚だ。

修士課程(あるいは博士前期課程)になって海外の初出論文や文献、書籍を読まなくてはならない状況になって、必要だから英語の文章を読み始める(しかしそれらも翻訳出版されていたりすることが殆どだ)。

そしてやっと博士課程(博士後期課程)で先行研究調査で初出の海外論文や書籍を読み、加えて英語での論文投稿や学会発表の必要性に迫られる。

要するに、日本人が日本国内で普通に活動する限り、よほどマニアック(因みに大学院というところはマニアックな人々が集う場所だ)な領域でなければ、英語を使う必要性などないのだ。そもそも日本には各言語に優秀な翻訳家や通訳が大勢いるのだから。この事は日本人の勤勉さと国力を現しているともいえる。

しかし一方、人口が少ない国の人や、国内だけの仕事では生活が成立しない国の人とか、大学学部レベルから海外テキストを使用しなくては勉強が進まない国の人、あるいは優秀な翻訳家や通訳が少数しかいない国の人は英語を操る事が出来る。そうしなくては生活できないのだから。

こういう国の人達は英語で書かれた文章やテキストや文献を読まねばならず、また英語で自分の意思や考えを示さなければ生きていけない。

だから当然、そうした国の人々は英語が達者である。繰り返しになるが、それは、その国で普通に生活するににも英語が必要だからだ。

日本は、多い人口、高い教育水準、島国であることや多数の外国語専門家のおかげで、日本国内で普通に生活するには英語は特に必要ではないのだ。これが日本人が英語が苦手な大きな理由のひとつである。

因みに、米国内の英語ネイティブにとっての外国語(スペイン語とかフランス語とか)の必要性は、日本国内の日本人にとってのそれ以上に低い。英語しか話せない米国人のなんと多いことか。

そして米国人は米国以外のどこでも、誰に対しても英語で話しかける。もしあなたがパリで白人に話しかけられたら、それは間違いなく米国人のはずだ。

米国には、長大な国境を接するメキシコが隣接するのに、スペイン語を全く解さない英語ネイティブが沢山いる。

スラング(方言や訛とは違う)でしか喋れない英語ネイティブもいるし、いまだに非識字の成人が数パーセントいると言われる。しかし、本人達がそれで生活が成立していると考えいれば、何の問題もないのだ。必要性がないということは、そういう事なのだ。

理由その②の「採点の道具」について
日本の公教育は長らく英語を学生を選抜する手段として用いて来た。そのために、非実際的な厳密さで英語を教育し採点してきた。厳密な英文法は採点するのに都合がよいのだ。

『理屈コネ太郎』が若かりし頃に日本の大学の受験勉強用に購入した英語の参考書を今よんでみると、本当に嫌になるほど厳密に「英語とはこれほど厳密なのだ」みたいな感じで記載されている。

殆どの人は厳密なルールで採点される事を好まないので、こういう採点目的に教育された英語に親近感を持てないのだ。むしろ嫌悪感を抱く人の方が多いだろう。私も嫌いだ。

一方、海外旅行などで知り合った外国人との他愛のない会話はとても楽しかったりする。しかし、他愛のない会話をいくら続けても、英語で情報収集したりできるようにはならないのだ。対愛のない会話では、英語は得意になれない。

ここまでの話しを纏めよう。日本人が英語を得意にできない理由は主に2つ。

1つは優秀な翻訳家や通訳が多数いるので大学学部課程レベルまでの知識や情報は殆ど全て日本語で完結しているので、普通の日本人が普通に日本で生活するには英語は殆ど不要である事。

もう1つは、受験英語の弊害で英語というもの構造や文法が必要以上に厳密に教えてられてきたせいで、学生達は痛めつけられ、英語とはかくも面倒臭いものなのだ…との誤った認識を広く人々が抱いた事。

ではどうしたら英語を使えるようになるのか
以上の2点を踏まえて、どうすれば英語をモノに出来るか『理屈コネ太郎』なりに提案したい。

『理屈コネ太郎』の場合は海外ドラマだが、とにかく自分の興味のあるナニかに英語で触れる事だ。『理屈コネ太郎』は海外ドラマや映画は基本的に字幕版しかみない。しかも、最初の数回は字幕を表示させずに見る。登場人物の表情や声の調子や状況でなんとなく「多分、こんな事を言ってんだろうなあ」みたいな感じで見る。そして聞き取れた単語や文をメモる。そんな感じで何回か見る。で、最終的には英語字幕で答え合わせをする。もう、これの繰り返しである。

なんでもいいのだ。今はYouTubeで色々な動画が出ている。探せば自分の興味のある動画は沢山ある。そして英語字幕をOnにすれば、画面で話されている英語がすぐに字幕になって出てくる。

そして、ここが大切なのだが、言葉というのは大体の意味が通じればそれで十分に機能しているのだ。受験英語のように、厳密である必要なない。

受験英語が厳密なのは、英語が厳密な性質を持っているからではなくて、採点者が採点しやすいにように厳密なルールを用いているだけなのだ。

だから、自分が興味のある領域の外国語の動画をどんどん見よう。想像力を働かせて字幕なしで見る。そして聞き取れた単語や文章をメモる。最終的には外国語の字幕で答え合わせだ。

自分が誰かに英語で話すときには、大体の意味が通じればいいのだ。受験のように厳格な採点者はそこにはいない。居るのは、自分と相手だけだ。言葉は、ビジネスを法律的に煮詰める時以外は、大体意味が通ればそれで十分なのだ。

今回は以上。

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