誤解を恐れずに断言すれば、高スキルな医師とは、一定の難度の高さの医療技術に習熟している医師だ。
別の頁で高スキル医師とか低スキル医師(詳細は当サイト内の高好感度なうえに高スキルな神医師、高好感度だけど低スキルな残念医師、低好感度なのに高スキルな隠れ神医師、低好感度のくせに低スキルなクソ医師、の各頁で)という言葉を使ったので、『理屈コネ太郎』が考える高スキル医師について独断で理屈をコネる。間違いがあってもスルーでPlease.
ここで言う医療技術とは、有効性や安全性について評価がある程度定まった技術のこと。有効性や安全性の評価が定まらない実験的技術はここでは考慮しない。
また、本頁では、適格な資格保持者が適切な環境下で行う医療行為についてのみ考慮する。
この2点を意識して読み進めて欲しい。
さて、医療技術には実行する上での難易度に高低がある。
独学で要点を学べば誰でも成功裏に実行可能な低難度な技術もあれば、師について一定期間を修練しなければ習得できない高難度技術もある。勿論、この2極端の間に難度の連続したスペクトルがある。
因みに、この難度の高い低いは、医療従事者以外の人が直観的に判断する高低とほぼほぼ相違ない考えてよい。一般の人から見て高難度そうな技術は実際に高難度なのだ。
ここで問題となるのは、では、高難度医療技術を習得している医師が、中難度までの医療技術も習得しているかというと、必ずしもそうではない…という事。
何故そういう事が起きるかというと、高難度医療技術を習得するのに多忙で、中難度医療技術を習得する時間がなかったからだ。
高難度医療技術の習得には長い時間と膨大な経験値が必要なのだ。
だから、高難度医療技術を持つ医療従事者は、その難度での習熟度を維持するために、それより低い難度の医療技術には手出ししない傾向にある。。
低い難度の治療技術の習得に時間を割いて、高難度医療技術の習熟度を低下させては、その高難度医療技術が必要な受診者が存在する現実社会では、医療・患者間の信義則に反するのではないだろうか。
細分化の歴史は、外科とか内科とかの大枠から、消化器科とか呼吸器科のように臓器系統別の細分化を経て、今後は医療技術の難度別に細分化が進む合理性まで出現しつつある。
いや、もしかしたらこの合理性は既に顕現していて、今は特定の医療技術、つまり特定の病気への特定の治療方とか、特定の手術術式とか、特定の放射線治療とか、特定の血管内治療とか、最低限の技術整合的な纏まりを持つ技術単位にまで細分化する合理性が出現しているのかも知れない。
特定の高難度医療技術だけを実施するが、それ以外の事は難易度が低くても出来ない…というスペシャリスト医療者いるのが実際だ。
さわさりながら、こうした細分化の潮流は”人間に向き合う”ことには都合が宜しくない。
ここでの人間とは、多種多様な臓器や組織の集合体である人体という意味と、1ひとりの人間とその家族が時間をかけて形成・共有する世界観・価値観とかいう意味だ。
人間は臓器や組織の単なる集合体ではないし、社会の合理性に合わせて病気になるのでもない。
人間はただ不意打ちを食らうように病むのだ。そして、ただただ事実を事実としてなんの準備もないまま押し付けられて、その事実を受容できなければ余計に苦しむことになる。
こうした人間的な苦しみや苦痛に対して、医療は無力だ。そして『理屈コネ太郎』は、こうした苦痛へのケアは既存医療職種ではなく別の領域の専門家が担う方が合理的だと思う。
高齢者ばかりとなる今後数十年(←Wikipediaの相当頁を開く)、複数の病気を患う人が増えると同時に、医療の細分化が進行すると、この領域のニーズは間違いなく増加するだろう
残念な事に、日本にはこの領域の専門家はまだ殆ど存在していないし、健康保険のような公的なファイナンス制度がなければ、今後も担う人は増えないだろう。
皆、生活していくだけで多忙なのだ。
少し話が逸れてしまった。
高スキルな医師について、これまでの議論を取り入れて、冒頭の定義よりもう少し細かい定義を与えて本頁のラップアップとしたい。
現時点における高スキルな医師とは、一定範囲内で連続する臓器系統に発生する疾病に対してある程度の難度の医療技術に習熟している医師だ。
そして習熟度の低下や、他の受診者とその家族に不利益がない限りにおいて、受診者を1人の人間として遇する見識の涵養・保持がのぞましい。
今回は以上。
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